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2018年10月 4日 (木)

大治五年と長承三年の出雲国司2

 同様のことは、後白河院の時代にもあり、藤原朝隆の子朝方が長期に出雲国知行国主の座にあった中、承安四年(一一七四)には院分国としその側近藤原能盛を出雲守に据えた。それまで院北面で国守の経験のない能盛が出雲守になるのは、嘉承三年(一一〇八)正月に出雲国が近臣藤原顕隆に与えられ、その子で一四才の顕頼が出雲守になったケースと同じである。その時点では『中右記』の筆者藤原宗忠は「年纔十四」と驚きを隠せなかったが、源光隆が出雲守に補任されたのは『中右記』によれば九才、その没年と年齢によるならば七才でしかなかった。能盛は三年で院分国とされた周防に遷任するが、その理由もまた杵築大社造営が喫緊の課題となったからであろう。そのために藤原朝方・朝定父子が石見国から出雲国に戻り、そのもとで仮殿造営と遷宮が行われ、次いで正殿造営が開始された。
 ただし飢饉と戦乱の発生もあって造営は遅れた。その救世主となったのが鎌倉幕府を開いた源頼朝であった。待賢門院の娘上西門院(統子内親王)の役人となり、崇德院の側近日野資憲の子親光を御外戚と呼ぶ頼朝に対して、出雲国知行国主藤原光隆もまた待賢門院流の関係者であった。待賢門院との関係もその前提には治天の君である白河院と鳥羽院の存在があり、美福門院庁の役人の中に待賢門院流の人々が多いのは当然であり、これを角田文衞氏のように寝返り・裏切りと捉えるのは一面的な評価である。
 日野資憲との関係で資忠と名乗った内蔵忠光の子を杵築大社神主に起用したのは、それが造営を進めるベストの方法と考えられたからである。忠光は杵築大社領を崇德院に寄進・立券した人物であり、資忠は配流されていた時期の頼朝に対する大功を背景として頼朝に領家藤原光隆への仲介を依頼し、その結果、父忠光以来の神主に返り咲き、建久元年(一一九〇)の杵築大社遷宮を行った。これに対して国造側が後白河院や出雲国在庁官人を巻き込んで抵抗しても結果は資忠の再任であった。

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