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2018年10月23日 (火)

出羽国の格付2

  保元三年五月六日には前年三月二六日に出羽守に補任された平行範と河内守高階泰経が相博している。河内守はCランクである。泰経は応保元年九月にCランクである摂津守に遷任している。泰経はその後は少納言→右京大夫に補任される一方で院近臣の指定席であるA1ランク伊予守を兼任。その一方では子経仲を国守として常陸国知行国主の地位を認められている。伊予守兼大蔵卿から寿永二年二月に従三位に叙され、公卿となった。後白河院の元で頼朝との交渉役を務めたことは有名である。
  治承三年一一月の平家のクーデターで出羽守を解任された藤原顕経は其の後復活し、正治元年一二月九日にはCランク筑後守に補任され、建久六年には知行国主花山院兼雅のもとでA2ランク備中守に現任している。その後、建暦二年一一月にも備中守への再任が確認できる。顕経は藤原家成の兄弟(家保の子)頼保の子であるが、父頼保にはその兄弟に比べて目立った経歴はなく、保延二年(一一三六)八月に五七才で死亡した家保の晩年の子であったと思われる。治承三年正月には「中宮大進入道」(俗名頼保)が死亡したことが『山塊記』に記されている。家保は予(記主中山忠親)の外祖父であるとも記されており、頼保は母親の兄弟であった。
  顕経の後任として出羽守に補任された平信兼は桓武平氏大掾氏の一族で、平氏政権のもとで、河内守(C)→和泉守(C)→出羽守(C)→和泉守(C)と受領を歴任している。とりあえず白河院から後白河院の時期の出羽守を確認したが、出雲守と因幡守を除けば、Cランクの国から遷任し、出羽国からもCランクの国に遷任している。A2ランク備中守(顕経)とA1ランク伊予守(泰経)もあるが、一定期間をおいた後の補任である。その意味で五味氏が出羽国をCランクと判定したことはよく理解ができる。ただ一二世紀前半の出羽守に補任された人物がその他の国守の補任が確認できなかったことは、出羽守は初めての国守が務めるものとの理解とともに、出羽国が陸奥国と並んで独自の位置づけであったとの理解も成り立ちうる。一二世紀後半の事例については、知行国主との関係もあって、単純ではない。ということで、出羽国もBランクの可能性があるということで、この分析を終えたい。いずれにせよ藤原季仲が出雲守から出羽守に遷任した例には矛盾はない。また、院政期の国司については、全国の状況を参照しなければ分析できないことも再確認した。大日方氏は藤原為隆・憲方父子の問題と藤原季仲の問題では出雲国以外への目配りが不十分なまま、結論を出してしまった。

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