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2018年10月16日 (火)

崇德院領と国司2

 待賢門院に関係する円勝寺と法金剛院領は丹波国に多いが、藤原顕頼により福貴御園が成勝寺に寄進された久安元年に丹波守であった藤原公信は待賢門院の従兄弟実信の子で、公信の子実清は保元の乱では崇德方であった。同年に山城国久世御園も成勝寺に寄進されているが、同年の山城守に比定できる源信康は基綱の孫(子時俊の子)であった。時俊の姉妹が源行宗、高階為遠、藤原為隆の妻となっている。為遠の娘には待賢門院尾張がおり、基綱の娘が産んだのが憲方・光房の異母兄弟憲隆である。さらに基綱の兄弟で橘俊綱の猶子となった俊頼の娘が待賢門院女房新少将であった。この当時の信濃守であったと思われる藤原賢行については康治二年正月に淡路守から遷任してきたこと以外は不明である。
 久安二年(一一四六)に阿波国法林寺が寄進された時点の阿波守は藤原顕能の子頼佐である。顕能は顕隆の子で、顕頼の同母弟であった。待賢門院庁と鳥羽院庁の下文の署判者としてみえたが、保延五年(一一三九)に三三才で死亡してしまった。翌六年に頼佐は若狭守となり、その三年後の康治二年(一一四三)に阿波守に遷任している。この時点でも二〇才未満であった可能性が高いが、法林寺領の寄進・立券の翌年正月には一期四年が終了したため、藤原保綱に交替している。その後の受領としての経歴は確認できない。後任の保綱は丹波守公信の孫で、仁平元年二月には阿波守を重任したが、同年七月には解任され、これもその後の受領補任は確認できない。
 久安六年(一一五〇)に相模国分寺が寄進された際の相模守藤原頼憲は憲方と藤原顕隆娘の間に生まれた。大治五年に待賢門院の御願寺法金剛院が落成したが、周防守であった憲方はその東御所を成功として造進している。同様に北斗堂を造進したのは顕隆の子で美作守であった顕能であった。憲方の娘は待賢門院の異母兄実行の嫡子三条公教の妻となっている。

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