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2018年10月

2018年10月29日 (月)

出雲守藤原朝経について

 朝経は藤原朝方の子で、兄朝定とともに藤原師綱の娘が母である。朝定は長寛三年(一一六五)の生まれであったが、寿永二年(一一八三)一〇月二六日に一九才で死亡した。系図では朝定室と朝経室はともに藤原親信の娘とされ、記載順が正しいとすれば朝経室が姉となる。何が言いたいかと言えば、朝定の同母弟であった朝経との間の年齢差は一~二才ではなかったかということである。仮に二才下(一一六七年生)とすると、兄の死により出雲守に補任された時点では一七才となり、父朝方が知行国主であった。
 前に偽文書であると判断した①文治元年一一月三日出雲国司庁宣が出された時点で朝経は一九才であるが、国司庁宣には知行国主である朝方の袖判はない。出雲守朝経による国司庁宣としては②建久五年二月一九日のものと③翌六年四月日付のものが残っている。この時点では朝経は二八~二九才であるので、父朝方ではなく朝経自身が出雲国務を執っていても不自然ではなく、この二通に袖判がない=朝方は知行国主ではなくなっていたことは理解できる。また、②③の花押は父朝方のものと共通性があるが、①は共通点より相違点が大きい。
 朝経は三〇才をわずかに越えた建久八年一二月に急死した。その後任が短期間とはいえ朝方・朝経との関係が確認できない藤原清長(定長1195没と後白河院分国の出雲守であった藤原能盛娘の子)であったのも、出雲国が朝方の知行国ではなかったからであろう。ただし、清長の後任として建久九年九月八日に出雲守に補任された藤原家時は朝方室の甥にあたり、この時点で出雲国は再び朝方の知行国に戻った可能性が高い。
 以上により、文治元年一一月三日出雲国司庁宣が偽文書であることを再確認した。

長元九年の正殿遷宮

 長元九年(一〇三六)の正殿遷宮については、旧記をはじめとする中世の史料にはみえないが、近世初頭の「杵築大社旧記御遷宮次第」(以下では「次第」)に初めて登場する。ただしその前に記されている長元四年(一〇三一)八月一一日の顛倒については出雲守橘俊孝から報告があったが、後に虚偽であったことが判明している。そのためか『遷宮』の年表でも「長元9年?」と疑問符が付けられている。
 この遷宮を行ったのは国造兼神主吉忠であったと記されている。この時点で「神主」は存在しないが、それはさておいて「吉忠」についてはどうであろうか。家譜によると正暦四年(九九三)から四五年間国造の地位にあり、長暦元年(一〇三七)に国明に交替している。建久二年八月二日出雲国在庁官人等解によると、紛失状のリスト中に正暦四年一一月日に吉忠を補任した国造庁宣と長暦二年二月日に国明を補任した国造庁宣が記されており、国明の補任年が一年違うが、根拠があるようにもみえる。しかし一方では、長保四年(一〇〇二)六月二八日には太政官符で出雲臣孝忠が国造に補任されており、当時の国造が国司庁宣で補任されていたという建久二年の在庁官人解に記された内容は虚偽のもので、長元四年時の国造も吉忠ではなく孝忠であった可能性が大きい。
 長元五年九月に橘俊孝が虚偽の託宣があったとした罪により出雲守を解任され佐渡国に配流されている。この直後に藤原登任が後任として出雲守に補任されたと思われるが、長元九年七月一三日に解状を提出した。長元五年以来の在任中の公文の勘済を望んだところ、担当者から前任者の公文の勘済が先だと指摘された。これに対して登任は俊孝の配流を理由に、その公文勘済なしに自らの勘済をすることを求め、八月三〇日に認められた。この後、杵築社造営の功による延任を申請し、認められたと思われる。この時点で造営は続けられており、同年一〇月二八日に正殿遷宮を行ったと記す「次第」の記載は事実ではない可能性が極めて高い。
 その後、長久元年(一〇四〇)正月五日には出雲守藤原登任が杵築社修造の功により正五位下に叙せられている。これによりすでに造営・遷宮は終わっていたことがわかるが登任はなお出雲守であった。この後まもなく出雲守を辞任したと思われる。その後の登任は『陸奥話記』で永承六年(一〇五一)に陸奥守に補任された源頼義の前任者としてみえる。
 以上の点から長元九年八月一一日の顛倒と一〇月二八日の正殿遷宮は事実ではなかった可能性が極めて高い。

天仁元年の仮殿遷宮3

  『遷宮』の年表の参考資料とされていた奈良文化財研究所『出雲大社 社殿等建造物調査報告』(大社町教育委員会、二〇〇三)は未見であったので、県立図書館で確認した。近世以前の造営の変遷の原稿は井上寛司氏の執筆であり、それならばなぜ最新の二〇〇九年の『日本中世国家と諸国一宮制』ではなく、旧稿によったのかは理解不能である。井上氏の見解も、A一九九一年、B二〇〇三年、C二〇〇九年のものでは微妙に変化している。
 AとBでは唯一天仁年間の仮殿遷宮の時期のみ異なっている。Aが天仁二年の顛倒後に仮殿遷宮を位置づけたのに対して、Bでは天仁元年の顛倒→同年の仮殿遷宮としている。誤植かとも思ったが、西暦年号も異なっており、理由は不明だが一年前倒しにされている。天仁元年一一月の遷宮については旧記で裏付けられるが、同年三月の顛倒については旧記には記載がない。関係史料としては旧記がより信頼性が高いとして、天仁二年と記した史料よりも優先したのであろう。前述のようにCでは天仁元年(一一〇八)一一月の遷宮後、翌年三月に顛倒があったとする。二〇一六年刊行の『松江市史』では西田氏が天仁元年一一月に仮殿遷宮が行われたとするが、顛倒ににいては言及していない。これに対して『松江市史』と同じ日に刊行された『遷宮』では、天仁二年に仮殿遷宮があったとしているが、その根拠はそう記した後年の史料がある以外は示されていない。
 井上氏の最新の見解では仮殿遷宮が終了後、正殿造営が停滞する中で、仮殿が顛倒したとの解釈であろうが、正殿とは異なり仮殿の高さはそれほどなかったと思われ、地震などの災害や火災による焼失以外は考えられないが、それならば再度仮殿を造営し、遷宮を行ったはずであるが、そうした記録は一切残されていない。顛倒はなかったが、国造義孝が作成した申状で、造営の必要性を裏付けるために付け加えられたものであろう。前述のように藤原顕頼による造営事業は、顛倒ではなく、前任の家保時代の状況を踏まえ、政府に申請し認められて開始したものである一年半にわたる中断はあったが、天仁三年七月に因幡国等から材木が供給された時点から三年で完成したものである。
 これに対して久安元年(一一四五)の遷宮については永治元年(一一四一)六月に顛倒したことが旧記にみえており、とりあえず修造した竈殿へ御神体を遷した上で、政府の実見使の確認をうけた上で、仮殿造営が開始され、翌年一一月に仮殿遷宮が行われた。顛倒から仮殿遷宮まで約一年半かかった原因については不明である。前回は政府が仮殿造営を認めた一月後には遷宮が行われている。同じく顛倒により舞殿に御神体を遷した上で仮殿造営を開始した出雲守藤原章俊の時期には顛倒の半年後には仮殿遷宮が行われている。

2018年10月27日 (土)

天仁元年の仮殿遷宮2

 前任の藤原家保も造営を根拠に重任を希望したが、実現しなかった。重任するためには、一期目の在任中に仮殿造営が終わり、正殿造営が開始されていなければならないが、政府は家保の申請を許可しなかった。源義親の乱の影響もあろうが、兄基隆が白河院の死後も鳥羽院の有力近臣の座を確保したのに対して、家保は大江匡房の養子になっていたことも影響したのか、従四位上に叙せられたのみで新たな任国は獲得できなかった。基隆と家保は母が堀河天皇の乳母であったことが、その地位の背景となったが、堀河の死後は明暗を分けた。
 ということで、嘉承三年正月に出雲守に補任された顕頼はすぐに大社造営を申請し、政府に認められて仮殿造営を開始し、一一月一五日には遷宮を終え、次の正殿造営を開始した。ところがここで大きな問題が発生した。造営のための材木が出雲国内では準備できなかったのである。その背景としてより規模を大きくした可能性もあるが、この当否については確証はない。従来は出雲国の正税+αで造営されていたが、前回の治暦三年の遷宮事業からは、臨時に一国平均役を賦課することも行われるようになった。
 顕頼による造営事業は顛倒により始まったのではなく、計画的なものであったが、予期せぬ理由から一年半以上中断し、天仁三年七月に因幡国から大木の提供をうけることで再開した。ただし、供給元が因幡国のみかどうかは不明である。因幡守は顕頼の叔父長隆であったが、因幡国からの提供は最初から意図されたものではなく、結果としてそうなったものである。
 話を天仁元年の仮殿造営に戻すと、写す際に天仁二年であったのを誤ったのではないかとの疑問が生じる余地はない。④には遷宮の日付が「十一月十五日辛酉」としるされており(その前後の日付も同様)、これにより天仁元年であることは確実なのである。図録の編者がなぜ天仁二年説を採用したのかは理解不能である。ちなみに、二〇一三年発行の「平成の大遷宮 出雲大社展」の図録の巻末の年表では、仮殿遷宮は記されていないが、天仁二年に顛倒があったと記しており、これも②を無批判に採用したものであった。出雲大社境内からの巨大な柱の発見から一八年が経過しているので、そろそろ正しい研究成果を踏まえた図録を発行してもらいたい(その他の問題点もあるがこれについては別に述べる)。そうしないと、意図の有無とは関係なく結果として歴史を偽造することになる。

天仁元年の仮殿遷宮1

 平成二七年(二〇一五)度島根県立古代出雲歴史博物館特別展「遷宮」の図録を今になってはじめて見たが、いくつか気になる点があるので、確認したい。
 表題は天永三年の正殿遷宮の前提となる仮殿遷宮であるが、図録の「出雲(杵築)大社連宮関連年表では仮殿遷宮が天仁二年に記されており、驚ろかされた。天仁元年であることは一〇〇%証明できるというのが本ブログの見解である。これに対して同二年に顛倒があり、それをうけての仮殿遷宮との解釈である。根拠となるのは①承久二年大社政所遷宮例注進(文書名は適切なものに修正)、②弘安四年国造義孝申状(これを宝治二年のものとする見解は冗談以下のレベルである)、③年未詳(一四世紀後半ヵ)造営注文(これを鎌倉末のものとするのも同様)とする(近世のものは除外)。
 ②については以前も述べたように、神主をめぐる対立の中で作成された政治的文書であり、他の史料での検証なくしては使ってはならない。①は基本的には信頼性は高いが、時に年号と前回からの年数がずれていることがあり、検証が必要である。ちなみに井上寛司氏『日本中世国家と諸国一宮制』(二〇〇九年)では天仁元年とされている。『大社町史』(一九九一)では天仁二年と解釈されていたのを修正された形である。根拠となるのは、建久元年の正殿遷宮の直前に国造孝房が神主に補任された時期に写して作成された杵築大社造営遷宮旧記注進である。これも『鎌倉遺文』で宝治二年前後のものとされ、(編者竹内氏からすればとりあえず関連文書のところに配置したもの)それが造営問題を論じた論文で検証されず放置されてきたものである。天永三年の遷宮については鎌倉初期に国造が誤って永久二年の遷宮と解釈した後、放置されてきた。
 天永三年の遷宮は、嘉承三年正月に出雲国知行国主に藤原顕隆、国守にその子顕頼を起用して準備して行われたものである。祖父為房が国主であったとの可能性も主張されるが、尾張守であった為房は嘉承二年五月には出家しようとして子の為隆の説得によりこれをなんとか先に延ばした状況にあった。その後、参議に補任され公卿とはなったが、その政治的意欲は低下していた。顕隆らの活躍はその能力にもよるが、為房の姉妹に堀河・鳥羽両天皇の乳母となり、後の待賢門院となる女子を産んだ光子(従三位に叙せられる)の存在が大きかった。顕隆ら兄弟は待賢門院の従兄弟になる。女院の兄弟である西園寺・徳大寺氏(同母兄)や三条氏(異母兄)の栄達についてはよく知られているが、それは勧修寺流についても同様であった。

2018年10月23日 (火)

出羽国の格付2

  保元三年五月六日には前年三月二六日に出羽守に補任された平行範と河内守高階泰経が相博している。河内守はCランクである。泰経は応保元年九月にCランクである摂津守に遷任している。泰経はその後は少納言→右京大夫に補任される一方で院近臣の指定席であるA1ランク伊予守を兼任。その一方では子経仲を国守として常陸国知行国主の地位を認められている。伊予守兼大蔵卿から寿永二年二月に従三位に叙され、公卿となった。後白河院の元で頼朝との交渉役を務めたことは有名である。
  治承三年一一月の平家のクーデターで出羽守を解任された藤原顕経は其の後復活し、正治元年一二月九日にはCランク筑後守に補任され、建久六年には知行国主花山院兼雅のもとでA2ランク備中守に現任している。その後、建暦二年一一月にも備中守への再任が確認できる。顕経は藤原家成の兄弟(家保の子)頼保の子であるが、父頼保にはその兄弟に比べて目立った経歴はなく、保延二年(一一三六)八月に五七才で死亡した家保の晩年の子であったと思われる。治承三年正月には「中宮大進入道」(俗名頼保)が死亡したことが『山塊記』に記されている。家保は予(記主中山忠親)の外祖父であるとも記されており、頼保は母親の兄弟であった。
  顕経の後任として出羽守に補任された平信兼は桓武平氏大掾氏の一族で、平氏政権のもとで、河内守(C)→和泉守(C)→出羽守(C)→和泉守(C)と受領を歴任している。とりあえず白河院から後白河院の時期の出羽守を確認したが、出雲守と因幡守を除けば、Cランクの国から遷任し、出羽国からもCランクの国に遷任している。A2ランク備中守(顕経)とA1ランク伊予守(泰経)もあるが、一定期間をおいた後の補任である。その意味で五味氏が出羽国をCランクと判定したことはよく理解ができる。ただ一二世紀前半の出羽守に補任された人物がその他の国守の補任が確認できなかったことは、出羽守は初めての国守が務めるものとの理解とともに、出羽国が陸奥国と並んで独自の位置づけであったとの理解も成り立ちうる。一二世紀後半の事例については、知行国主との関係もあって、単純ではない。ということで、出羽国もBランクの可能性があるということで、この分析を終えたい。いずれにせよ藤原季仲が出雲守から出羽守に遷任した例には矛盾はない。また、院政期の国司については、全国の状況を参照しなければ分析できないことも再確認した。大日方氏は藤原為隆・憲方父子の問題と藤原季仲の問題では出雲国以外への目配りが不十分なまま、結論を出してしまった。

出羽国の格付1

 出雲国を五味氏はCに格付けられたが、再検討の結果、Bが妥当との説を提示した。これと今回の藤原季仲が出雲守から出羽守に遷任したとの説の関係はどうであろうか。出雲国をBに変更した当方の説には問題があるのではないかとの疑問を持たれる方もあるかもしれないので、出羽守についても再検討してみる。
 出羽守補任・現任が確認できる院政期の人物はそれ以外の国守を確認できる例が少ない。ようやく一例目として、仁平二年(一一五二)八月一〇日にBランクである因幡守に在任していた藤原盛方が、久寿元年(一一五四)二月八日に出羽守に補任されたことが確認できた。
 盛方は、藤原為房の子で嘉承三年(一一〇八)に因幡守に補任されたが、在任三年半が経過した天永二年(一一一一)五月二八日に死亡した長隆と高階重仲との間に天永元年に生まれた顕時の子である。『中右記』を記した藤原宗忠の子宗成が因幡守の後任として補任されたが、顕時(保元二年八月二二日に顕遠から改名)は父が死亡した時点では二才にすぎなかった。Cランク摂津守(一一三四、二五才)、Cランク甲斐守を歴任する一方で康治二年(一一四二)には院(崇德ヵ)判官代となり、それ以降は左少弁→左中弁→右大弁→左大弁と昇進し、平治元年には正四位下参議に補任されている。
  因幡守は久安六年(一一五〇)末まで顕時の妻の父である藤原信輔が二期八年務めていたが、顕時の子で信輔の孫となる盛隆が仁平元年(一一五一)正月に補任された。翌二年八月一〇日には盛隆の異母兄弟(母は平忠盛の娘)盛方(一六才)の現任が確認できる。盛方は前述のように久寿元年正月に出羽守に遷任し、因幡守の後任には盛隆の母方の祖父信輔の子信隆が補任された。盛隆はこの時に甲斐守に補任されている。

出雲守藤原季仲2

 一方、『柳原家記録四六 除目大聞書』によると嘉保元年(一〇九四)二月二二日の除目で出羽守に「従五位上藤原朝臣季仲」が補任されている。これも頭弁季仲とは別人で、この人物が出雲守季仲と同一人物であろう。この史料は『大日本史料』にも収録されている周知のものである。ただし、出雲国では守以外の四名が新たに補任されているが、守は記されておらず、これ以前に藤原季仲から高階重仲に交替していたことになる。
 出雲守季仲は藤原長良(基経の実父)の子清経の子孫範永と藤原永頼の娘の間に生まれた。範永と同様、季仲も受領を歴任した。系図には出羽守のみ記されるが、出雲守からの遷任であった。季仲の兄弟良綱の娘が高階泰仲の妻となり、重仲の異母兄弟である清泰と泰尋を産んでいる。なお出雲守季仲時代の注目すべき点としては寛治五年(一〇九一)四月一七日には佐陀神社竈殿が炎上し、それと並行する形で存在した大神宝殿と三若宮神殿並びに御神体が焼失したことである。これにともない再建が行われたはずであるが、関係史料は全く残っておらず、その実態は不明である。再建・造営事業は後任の高階重仲の時代にも続けられたと思われる。重仲も出雲守退任後、間をおいて近江守に補任されているが、初の国司として出雲守を務めたことになる。
 出羽守藤原季仲の存在については「国司一覧」(『日本史総覧』)巻末の国司索引をみればすぐに確認できるが、以上のように、大日方氏は確認作業を欠いたまま思い込んでしまったのである。院政期の国司については、論じる対象が出雲守のみであっても全国の補任状況を確認しないと論じることはできないのである。
不記(2021/05/13)大日方氏は天仁元年(実は改元前の嘉承三年)二月二二日に山陵使として嵯峨に派遣される予定であった「元使出雲守藤原季仲」を大日本史料の編者の注記のように顕頼の御記とするが、顕頼はその一月前に補任されたばかりであることと、「顕頼」を「季仲」と誤記する(即位雑例条々兼日に収録する際)ことは考えられない。柏原に派遣される予定であった「元使下野守源朝臣経兼」、村上に派遣される予定であった「元使肥後守藤原為宣」はそれぞれ「前下野守」、「前肥後守」の誤りであり、「前出雲守」の誤りならありうることである。また「出羽」を「出雲」と誤記した例は存在するので、本来は「前出羽守藤原季仲」ではなかったか。

出雲守藤原季仲1

 杵築社の造営旧記には出雲守藤原兼平が重任をして熊野・揖屋・水訳三社の造進を行ったことが記されている。補任されたのは永保二年(一〇八二)正月である。二期八年務めると寛治五年正月に退任となるが、実際には寛治三年正月に和泉守に遷任しており、出雲守在任は六年であった。その後任について、『松江市史』通史編1古代の関係部分を執筆した大日方氏は、高階重仲であるとするが、重仲の現任が確認できるのは寛治六年四月二八日のことであり(『中右記』)、その一年前の寛治五年五月九日には朝廷により主要神社への臨時の奉幣が行われたが、派遣された使者の一人として「季仲 出雲守」がみえる(『後二条師通記』)。大日方氏はそれを承知の上で、「重仲の誤りか」と判断された。問題は必要な確認を行った上での妥当な判断だったかである。
 この時期に「頭弁」藤原季仲という人物が史料に頻出しているが、蔵人頭兼左中弁を務めていた。嘉保元年(一〇九四)六月一三日には参議兼左大弁正四位下「藤季仲」とみえる(『中右記』)。この季仲と出雲守季仲が同一人物ではありえないことから、大日向氏は「季仲」は「重仲」の誤りであるとして、兼平の後任は季仲ではなく重仲とされたのだろう。兼平は藤原実頼流の経季の子(母藤原定頼女)であるが、その異母兄弟(母藤原邦恒女)に季仲がおり、この人物が「頭弁」季仲であった。高階重仲の姉妹である女性が季仲の室の一人となり、その子懐季・実明等の母となったことが系図にはみえる。後に大宰権帥として赴任した筑前国で延暦寺末寺による濫行を鎮圧した際に日吉社神人を殺害してしまい、これに反発した延暦寺の強訴を招いた。朝廷は事態の沈静化のため季仲を捕らえ、流罪に処した。季仲は最終的な配流地常陸国で元永二年(一一一九)に六四才で死亡し、その子も解官された。

2018年10月21日 (日)

国司重任と神社造営2

 承元年間(一二〇七~一一)に出雲国は鳥羽院分国とされたが、建久元年造営から二〇年経っておらず、杵築社造営は課題とはなっていない。承久二年には杵築社造営を求める声は出ていたが、承久の乱が大きな影響を与えた。朝廷は後高倉院に近く、幕府との関係が良好な持明院家行を知行国主としたが、嘉禄二年に五二才で死亡し、後任の二条定輔も補任の翌年である嘉禄三年七月に六九才で死亡した。ちょうど七月には杵築社仮殿遷宮が行われている。一〇月に後任の知行国主となった平有親もまた不遇な時代の後高倉院に仕えおり、久安元年の遷宮を行った藤原光隆の孫であった。今回もまた、宝治二年に遷宮が完了するまで知行国主の地位にあり、子の時継に交替した。時継は後嵯峨院の子後深草天皇の蔵人頭となったこともあって、結果としては持明院統系に身を置くこととなる。
 文永元年一〇月一五日には知行国主は四条隆親に交替し、時継は加賀国へ遷任した。隆親は後嵯峨院のもとで評定衆となったが、後深草の乳母夫であり、後深草との関係が深かった。この時点で出雲国は後深草院の分国となったと思われる。杵築社は宝治二年造営であり、新たな造営が始まるのは約二〇年先のはずであった。ところが、文永七年正月に本殿が焼失し、造営に着手せざるを得なかった。院分国と両立が困難なのは正殿造営であったが、仮殿造営に手間取る中、文永一二年には吉田経俊が知行国主となった。この時点で後深草院の分国ではなくなった。
 弘安五年に出雲国は亀山院の分国となった。それに伴い、後深草院は出雲国長江郷の替わりに土佐国永武郷を寄進したが、長江郷の寄進は亀山院によって継承された。弘安六年三月二八日に平兼有が出雲守に補任されたが、兼有は持明院統系の人物であり、この時点で出雲国は亀山院分国から知行国(国主は不明)に変更されたと思われる。その理由はなお杵築社仮殿(本来の仮殿ではなく規模の小さい正殿)造営が行われていたためである。前に鎌倉末期の出雲国司について述べた際は、後深草の分国としたが訂正する。これ以降、幕府が滅亡するまで出雲国では断続的に杵築社造営が行われており、院分国とするメリットは薄れていた。重任して造営を完成させることもなく、短期間で知行国主と国守が交替していることからも、それは明白である。

 

国司重任と神社造営1

 仁安三年(一一六八)一一月に厳島神社神主佐伯景弘が、現国司を厳島社神殿舎屋修造功により重任させることを求めている。その当時、厳島神社の造営が進行中であったと思われる。国司は平清盛の側近藤原能盛で、嘉応二年(一一七〇)四月の時点で現任しており、申請は認められた。造営がいつ完成したかに関する史料はないが、承安三年(一一七三)二月には後任である高階成章の現任が確認でき、これ以前には終了していた。重任申請からすると、能盛が安芸守に補任されたのは長寛三年初であろう。二年一二月には伊予国知行国主平清盛の目代として弓削島庄住人の解状に「壱岐守藤原朝臣」と署判を加えて外題安堵している。
 佐伯景弘は申請にあたって国司が重任して神社を造営した例として、伊勢国多度社(藤原資成が永万二年一二月二四日重任)、駿河国浅間社(藤原為保が仁安三年五月一一日重任)、常陸国鹿島社(藤原盛輔が大治五年五月二五日重任)、下総国香取社(藤原親通が保延四年一一月六日重任)、越前国気比社(高階盛章が保延元年一二月二日重任)、備中国吉備津社(藤原定綱が康平七年一二月二一日重任)、紀伊国日前国懸熊野新宮丹生社等三箇所(小槻孝信が承暦四年一二月六日重任)とともに、杵築社(藤原顕頼が天永二年一二月二四日重任)をあげていた。
 備中国と紀伊国の例は白河院が実権を持ち、複数年の院分国(女院を含む)が認められる以前であるが、それ以降の安芸国を含む七例はいずれも院分国ではない。すでに述べたように、国内の有力神社の造営と院分国の設定は両立しないのである。
 出雲国では保延四年一二月末に待賢門院分国から藤原清隆知行国に移行し、待賢門院分国は安芸国に移った。厳島神社造営・遷宮の年次は不明だが、仁安三年に造営が進行中であり、保延四年末の時点で厳島造営が始まる可能性は低かったと思われる。安元三年に出雲国が院分国から藤原朝方の知行国に戻されたのは杵築社造営が課題となったからであった。院近臣で院分国前の出雲国知行国主で事情をわかっている朝方を再任した。結果的には朝方は建久元年の遷宮を行い、死亡する直前まで知行国主であった。

2018年10月19日 (金)

杵築社への奉幣2

 『中右記』天永元(天仁三)年(一一一〇)六月一三日条によると、杵築社奉幣日時と越前国気比宮遷宮日時、大宰府管下の鏡宮の破損修理日時について朝廷で話し合われている。気比宮の遷宮は一旦日時が決められたが穢の問題から延期されていた。杵築社については同年三月に鳴動したとの報告があり、重大な事態であるとの占い結果が出された。天永元年は三合厄の年にあたり、災害の多発が恐れられていた上に、五月一二日には彗星が出現しており、延久五年(一〇七三)の例に基づき神祇少祐を奉幣使として派遣することとなった。同年は治暦三年の遷宮の六年後であった。なお天永元年に閏七月一日には出雲守藤原顕頼が出雲国へ下向するため白河院のもとを訪ねたところ、院から馬を賜り、これについて藤原為忠を通じて『中右記』の記者宗忠に問い合わせがあったが、馬を賜るのは大宰府帥や大弐に限られるとの返事をしたことを記している。顕頼の出雲国下向は正殿造営の本格化を確認するだけでなく、奉幣使派遣とともに出雲国内の安定を図るためのものであったと考える。
 日記については原本やそれに準じるより質の良い写本が発見されているようである。ただしその本の利用は誰にでも容易ではない。とりあえずは、使用することを決めた部分については、当該部分を確認するというのが現実的目標である。『愛知県史』では資料編に収録した本文は良い本に基づき、人名の注記も収録したが、国司表を作成した際には従来の活字本で行ったため、『愛知県史研究紀要』の論文の中で若干の修正が加えられている。「日野資光」(資憲の叔父)の関係史料は『中右記』にかなりあることが索引からわかるが、それ以外のものも一定程度確認した。『中右記』を含む公家の日記から行事関連史料をまとめた『仙洞御移徒部類記』や『御産部類記』(いずれも宮内庁書陵部から活字本が出版されている)は院政期を研究するための重要史料である。

杵築社への奉幣1

 昨日がブログ開設一〇年目であったが、一一年目の最初の記事である。
 標記に関する史料を確認した。『中右記』中の記事であるが、テーマ毎にまとめた「部類第一九 奉幣」の史料であるが故に、『大社町史』『松江市史』や井上寛司氏作成の「中世出雲国関係史料編年目録」にも洩れている。論者は基本的には戦前発行であるがゆえに国会図書館デジタルが公開している史料通覧版を利用しているが、底本とした写本に対して他の写本との校訂が十分ではなく、戦後には増補史料大成版が刊行され、『中右記』の索引もこれに準拠している。さらには一九九三年以降、東大史料編纂所編で『大日本古記録』の一つとして刊行が行われているが、現時点では第七巻(天仁元年六月まで収録)までと別巻一冊(二〇一一年刊)しか刊行されていない。前記の二書は七巻本であり、全一八巻の古記録版が完成してようやく利用の便宜が図られる。刊行済のテキストについては史料編纂所の古記録フルテキストデータベースの検索に反映されている。当方も別巻に含まれる内容を同データベースで確認した。「日野資光」について検索している過程で目にとまったものである。
 『大社町史』『松江市史』で奉幣の史料を確認すると、後に事実ではなかったことが判明した長元四年八月の杵築社顛倒に対して、閏一〇月一五日に朝廷からの奉幣使の派遣が決定され、神祇少祐大中臣元範が派遣された。
 天永三年六月に遷宮が終了した杵築社造営については、天仁元年(一一〇八)一一月に仮殿遷宮が終わり、正殿造営のための材木の採取が始まったが、必要な質・量を備えた材木が確保できないことが判明し、一時中断した。一年半後の天仁三年七月に因幡国などから材木を調達してようやく造営が軌道に乗り、造営終了後の天永三年四月二八日に遷宮日時が決定され、六月一八日に遷宮が行われた。当初から周辺諸国の協力のもと造営する体制であれば中断は回避できたはずであり、行き詰まったために、協力を仰ぐ形となった。

2018年10月16日 (火)

崇德院領と国司3

 保延三年(一一三七)に安芸権介実明が周防国小俣・田島・高墓庄を法金剛院に寄進しているが、その際の周防守も憲方であった。この三庄は天治二年(一一二五)に白河院庁下文により玉祖社領であることが認められていたが、それを法金剛院に寄進することでその領有を確固たるものとした。これにより実明の子孫による三庄の預所職の相伝が保証された。憲方の子頼憲は待賢門院庁判官代藤原知通の娘を妻とし、その子親房は待賢門院の子上西門院判官代となっている。憲方自身は鳥羽院庁下文にはみえても待賢門院庁下文の署判者としてはみえないが、待賢門院とは緊密な関係にあった。
 実明は大宰権帥季仲の子であった。長治二年に父が延暦寺の強訴により常陸国に流罪となった時点で少納言を解任され、父は流罪の地で没したのに対して、実明は復帰し、その娘が待賢門院女房となっていた。
 仁平四年に摂津国難波庄が寄進された際の摂津守は藤原顕業の子俊経である。俊経は憲方の姉妹や平実親の娘を妻としていた。俊経の娘は憲方の同母弟光房の子光長の妻となっている。実親は天治元年(一一二四)年に院号宣下が行われた際に中宮職権少進から待賢門院庁判官代となり、大治三年一二月の待賢門院庁牒にも判官代としてみえる。実親は受領を歴任し、大宰大弐となり、従三位公卿に進んだ。為隆の娘との間に生まれた嫡子範家は待賢門院別当藤原清隆の娘を妻としている。そして範家の娘は光房の嫡子経房の妻となっている。
 最後に、崇德院の側近日野資憲が天養二年(一一四五)に揖屋社を寄進した際の出雲守は藤原光隆であったが、まだ一〇代であり、実権は父で知行国主であった清綱が握っていた。仁平二年には増仁が飯石社を寄進したが、その際の出雲守は院近臣藤原基隆の子経隆であった。基隆は待賢門院別当であり、大治三年に落成した院の御願寺で後に六勝寺の一つとされた円勝寺の造営に際しては伊予守であった基隆が西塔を増進した。大治五年の法金剛院造営では本堂を基隆が造営している。
 以上、信濃守賢行については不明であったが、その他の国守はいずれも待賢門院と密接な関係を有した人物であったことが確認できた。

崇德院領と国司2

 待賢門院に関係する円勝寺と法金剛院領は丹波国に多いが、藤原顕頼により福貴御園が成勝寺に寄進された久安元年に丹波守であった藤原公信は待賢門院の従兄弟実信の子で、公信の子実清は保元の乱では崇德方であった。同年に山城国久世御園も成勝寺に寄進されているが、同年の山城守に比定できる源信康は基綱の孫(子時俊の子)であった。時俊の姉妹が源行宗、高階為遠、藤原為隆の妻となっている。為遠の娘には待賢門院尾張がおり、基綱の娘が産んだのが憲方・光房の異母兄弟憲隆である。さらに基綱の兄弟で橘俊綱の猶子となった俊頼の娘が待賢門院女房新少将であった。この当時の信濃守であったと思われる藤原賢行については康治二年正月に淡路守から遷任してきたこと以外は不明である。
 久安二年(一一四六)に阿波国法林寺が寄進された時点の阿波守は藤原顕能の子頼佐である。顕能は顕隆の子で、顕頼の同母弟であった。待賢門院庁と鳥羽院庁の下文の署判者としてみえたが、保延五年(一一三九)に三三才で死亡してしまった。翌六年に頼佐は若狭守となり、その三年後の康治二年(一一四三)に阿波守に遷任している。この時点でも二〇才未満であった可能性が高いが、法林寺領の寄進・立券の翌年正月には一期四年が終了したため、藤原保綱に交替している。その後の受領としての経歴は確認できない。後任の保綱は丹波守公信の孫で、仁平元年二月には阿波守を重任したが、同年七月には解任され、これもその後の受領補任は確認できない。
 久安六年(一一五〇)に相模国分寺が寄進された際の相模守藤原頼憲は憲方と藤原顕隆娘の間に生まれた。大治五年に待賢門院の御願寺法金剛院が落成したが、周防守であった憲方はその東御所を成功として造進している。同様に北斗堂を造進したのは顕隆の子で美作守であった顕能であった。憲方の娘は待賢門院の異母兄実行の嫡子三条公教の妻となっている。

崇德院領と国司1

 崇德院の御願寺である成勝寺領の寄進者についてはすでにみたが、一方でその寄進・立券を認めた国司はどのような立場にあった人物であったかを確認する。荘園絵図で有名な紀伊国桛田荘については、一時期は讃岐院領(御願寺領ではなく庁分であろう)であったが、久安四年(一一四八)正月二八日に紀伊守に補任された紀伊守源季範の時に国領に戻されたとされる(平安遺文補二三五)。大治五年正月二八日に紀伊守に補任された藤原公重は待賢門院の兄で徳大寺実能の養子となった人物であり、保延三年時点での現任が確認できる。養父実能が知行国主であったと思われる。次いで保延四年二二日に紀伊守に補任され、翌五年の現任が確認出来る藤原親能は親頼の子で、母は皇太后宮女房因幡で、皇太后=待賢門院に仕える女官であった。
 保延六年(一一四〇)四月三日には源雅重が紀伊守に補任された。その祖父源基平は小一条院の子が源姓を与えられた人物であり、その娘は後三条との間に実仁・輔仁という二人の皇子を生んでいた。後三条は摂関家との外戚関係のある白河に替えてこの二人を天皇にする意向であったが、その急死により、白河は自らの子堀河に天皇を譲った。そのため基平の子行宗の昇進は二五年間にわたって停滞したが、晩年になって待賢門院藤原璋子への昇殿を聴されて、保延五年(一一三九)には女院の御給で従三位に叙せられて七六歳で公卿に列した。翌年には養女兵衛佐局が崇德天皇との間に重仁親王を生んでいる。
 雅重は父と同様歌人としては知られ、二条天皇の歌会の常連であったとされるが、公卿には昇進できなかった。桛田荘の立券はこの雅重が紀伊守の時代に認められたものであろう。崇德の御願寺成勝寺への所領寄進が本格化するのが母待賢門院が死亡した天養二年(久安元年)以降のことである。雅重の後任の紀伊守は鳥羽の北面出身の源季範であったが桛田荘を認めず停廃してしまった。当時の庄園と受領の対立を反映したものであろう。

2018年10月13日 (土)

日野氏と頼朝2

 関連して、待賢門院女房と日野氏について、角田文衞氏『待賢門院璋子の生涯』の中で、待賢門院関屋は藤原忠興の娘で、実光の弟資光の妻であることと、待賢門院阿波は資光の娘であることが記されている。『尊卑分脈』には忠興については娘がいたことのみ記されている。資光の方は息子盛業の母が忠興の娘であることが記され、『中右記』には久寿三年正月条に資憲の子俊光と資光の子盛業が、待賢門院の子後白河天皇の蔵人に補任されたことが記されている。俊光は「春宮尚寝」の、盛業は「新院蔵人」の経験者であった。春宮は前年九月に父後白河の春宮となった二条(守仁)であり、新院は崇德であろう。そして俊光の母は新院女房阿波であり、盛業の母は故待賢門院女房関屋であることが記されている。
 これをうけて、角田氏は阿波もまた関屋の子であろうと推定された。阿波は一一三〇年一二月末には待賢門院の熊野詣に同行しており、その後、女院の死により上西門院ではなく崇德院の女房となり、なお健在であった。一一一〇年頃に生まれ、資憲と同程度の年齢であろう。一方関屋はすでに死亡している。待賢門院が死亡した一一四五年以前に亡くなった可能性が高いが、その子盛業は同時に蔵人に補任された従兄弟である資憲の子俊光に対して一〇才以上年上とは考えられない。俊光が二〇才(一一三六生)なら、盛業はせいぜい三〇才(一一二六年生)となる。すると姉阿波とは一六才以上の年齢差が生じ、阿波の異母弟の可能性が大きい。ということで、角田氏の推定は誤りである可能性が大きい。
 資光は一一一八年に三五才で中宮璋子のもとで中宮少進となり、六年後の一一二四年に院号宣下がなされると待賢門院庁判官代となった。一一二八年一二月の待賢門院庁牒には別当の一人として「大学頭兼式部少輔藤原朝臣」と署名している。そして五〇才で死亡するまで一五年間務めた。その中で女房関屋との間に盛兼が生まれたと思われる。資憲は妻阿波の父資光が死亡した二年後の一一三五年に待賢門院の皇太后宮権大進に補任されている。一一四一年末と四四年九月には鳥羽院庁下文の署判者としてみえる。それが四四年末に下野守を辞職して、石見守であった池禅尼の兄弟宗長と交替し、本人は崇德院庁の業務に専念したと思われる。四五年八月には待賢門院が死亡し、その分国や庁分・円勝寺領・方金剛院領は崇德が管理することとなったと思われる。崇德は三三才、妹の統子内親王(上西門院)は二〇才、弟の雅仁親王(後白河)は一九才であった。

日野氏と頼朝1

 藤原親光と頼朝の関係をみていた時に浮かんだのが表題のことであった。親鸞は日野有範と頼朝の妹の間に生まれた子というものである。有範は尊卑分脈では日野実光の兄弟とされ、その子に範宴(親鸞)が記されている。とすれば親鸞と資憲は従兄弟ということになり、頼朝が姉妹の嫁ぎ先である日野氏を外戚と呼ぶこともあるかもしれないと思った。ただ、その説には問題があり、確定したものではなさそうである。その説に基づけば親鸞と実光の嫡子資長は従兄弟となるが、資長は一一一九年の生まれであるのに対して、親鸞は一一七三年生まれであり、資憲については生年は不明だが、一一七二年までには死亡しており、とても事実とは思われない。
 同じく実光の兄弟とされる範綱の子範宗は承久の乱で斬られたことが記されており、これも世代的にありえないことである。そのためか、範綱には「或本宗光孫経尹子」とある(尊卑分脈)。確かに実光の兄弟に宗光がいるが、経尹はその孫ではなく子として記されているのでこれも不可解。諸説あるのだろう。範綱だけでなく有範も経尹の子であるとの説もあるが、経尹が宗光の子なら世代的にはよいが、孫とすると今度はおそすぎるということになるが、どうであろうか。日本史の授業の中で、親鸞は日野氏の菩提寺法界寺の一角にある阿弥陀堂で生まれたとの話をしていたが、裏付けは十分ではなかったようである。
 系図の中では信頼性が高いとされる尊卑分脈ではあるが、基本的には個々の記述を確認しなければ使用できない(矛盾がないので使用するなら可ヵ)というごく当たり前のことが確認できた。文書の中でも裁判の一方の当事者の訴状は、正しい文書ではあるが、そこに書かれた内容が正しいかは、個々について確認しないといけない。

2018年10月12日 (金)

出雲国の格付

 五味氏による国の格付で出雲国はCとされ、意外な感じを受けたので、一応検討してみたい。ただし、嘉承三年(一一〇八)に白河院が主導権を持って人事を行って以降は、仁平四年補任の源光保を除けば知行国主ないしは院分国下の国守である。
 承暦元年(一〇七七)補任の源経仲はそれ以前(具体的年次不明)にはBランクの上野守であった。永保二年(一〇八二)補任の藤原兼平はCランク和泉守経験者で、出雲守の後にBランクの淡路守に補任されている。寛治五年(一〇九一)補任の藤原季仲は、その後Cランク出羽守に補任されている。寛治六年補任の藤原重仲は、その後A3ランクの近江守に補任されている。永長二年(一〇九七)補任の藤原忠清は、その後Bランクの淡路守に補任されている。長治元年(一一〇五)補任の藤原家保は、ぞの前年にA3ランクの備後守に補任されている。
 季仲、重仲は出雲守が受領初任であったと思われ、嘉承三年以降でも藤原憲頼、憲方、源光隆、平基親、藤原朝時、朝定、能盛、朝経が初任である。これが五味氏が出雲国をCランクとした理由であろうが、Bランクとした方がより妥当ではないか。これと矛盾するとすれば季仲が次にCランクの出羽守に補任されていることであろうか。
 知行国、院分国下の国司は特別な事情があろうが、三河守・周防守・安芸守・近江守からの遷任があり、Bとして矛盾がある遷任例はみられない。承安四年(一一七四)に朝定が石見守に遷任したのは出雲国が後白河の院分国とされたため、空きのあった石見国に一時的に移っただけである。逆に経隆が大治五年(一一三〇)に最上位A1である讃岐守に遷任したのは院近臣間の交替のため生じた事態であった。相博が3例あるが、石見国を除く周防国・安芸国(ともにA3ランク)の例をみればやはり出雲国はBとした方が問題点は少ないと思われる。全体の見直しの中で再検討が必要ではあるが、出雲国については格上げに問題はみられない。

2018年10月10日 (水)

国司人事と国のランク4

 就任して一年に満たない院近臣藤原家成が讃岐守からA上ランク播磨守に遷任したが、前任の基隆も播磨守就任一年未満であった。待賢門院の御願寺法金剛院の供養が終わり、その造寺賞で基隆は一〇月五日に修理大夫を兼ね、二五日には従三位に叙せられた。播磨守が基隆から家成に交替したのはそのためであるが、出雲国知行国主については交替する必要はない。その一方で出雲国を待賢門院の分国とし、その関係者の子弟で幼少の光隆(一時は基隆後家の猶子であった)を国守にすることが持ち上がったための、異例の人事であった。
 待賢門院の分国は二期八年続き、光隆は妻の父で待賢門院判官代である高階家行とともに、重任、遷任の功を積み、保延四年(一一三八)末にA下ランク安芸守に遷任した。出雲国では杵築大社造営が目前の課題となっていたため、院近臣の実力者藤原清隆とその子光隆の安芸国と相博する形となった。光隆の申状にあったように、白河院が実権を握った嘉承三年正月の除目以降、院への成功とともに、院の御願寺への庄園寄進が相次ぎ、造営費用の確保と国内の所領への賦課は困難となっていた。これに対応するための実力者の起用であった。清隆は永治二年(一一四二)初から保元二年(一一五七)末までの子の定隆と光隆を国守としてA中ランク備中国の知行国主の地位にあった。また、久安四年(一一四八)から二期八年間伯耆守であった平親範は清隆の娘を母としており、こちらも清隆が実権を握っていた可能性が高い。
 五味氏の国のランクに戻ると、奈良時代に比べて九州と関東・東北諸国の地位低下が目立つ。大国であった肥後国はCランクに下がり、大宰府のある筑前国も上国からCランクとなり、これに肥前国を加えた三ヵ国以外はすべてDランクである。関東・東北諸国も奈良時代には大国六、上国三、中国一であったのが、Bランク五、Cランク五となっている。歴史人口学の成果によれば、院政期の関東・東北地方は人口増加が目立ち、それが奥州藤原氏の繁栄と鎌倉幕府の成立を可能としたとされる。両者の整合性について検討してみる必要がある。

国司人事と国のランク3

 顕頼と隆頼が相博した三河国はBランク、出雲国はCランクである。Bランクの因幡・伯耆に対して、出雲・石見・隠岐はCランクである。律令制下では因幡・伯耆・出雲は上国、石見は中国、隠岐は下国であった。この三ヵ国の当時の水田面積は石見は出雲の半分程度、隠岐は石見の半分以下であるが、どのような背景があるかは不明である。いずれにせよ四年任期の中で、その年の国守が交替する国も全体の四分一程度と限られ、その前提の中で、知行国主を含めて決定される。
 隆頼は出雲守を重任したが、七年が経過した保安二年(一一二一)末にBランク若狭守に遷任し、藤原憲方が出雲守に補任された。初任で幼少であり、父為隆が知行国主として支配にあたったと思われる。憲方も重任したが七年が経過した大治三年(一一二八)一二月二九日にA下ランク周防守藤原経隆と相博した。憲方が周防守に遷任した理由について、大日方克己氏は父為隆が一年前に周防権守に補任されていたため、為隆の要請で子憲方が補任され、大治五年九月に為隆が死亡するまでこの体制が続いたとされた(「平安後期の出雲国司」)が、関係史料の確認をされなかったようである。翌大治四年二月一七日には、父子が同任なのは憚りがあり(長秋記)、便宜がない(中右記)として、左大弁であった父為隆を讃岐権守に遷任させている。氏は出雲国司中心に述べられたため、遷任後の周防国司関係史料への関心が低下したのであろうか。
 経隆は隆頼の異母弟で、周防守就任時は幼少で父基隆が知行国主であった可能性が高い。この時点で自身はA上ランク伊予守である一方で、経隆の同母兄弟で嫡子であるA中ランク備中守忠隆の知行国主であったと思われ、経隆自らが出雲守として支配に当たっていたことも考えられる。ところが、二年が経過する直前の大治五年一〇月二七日に九才の藤原光隆が出雲守に補任され、経隆は院近臣の指定席であるA上ランク讃岐守に遷任した。

国司人事と国のランク2

 郁芳門院は中宮藤原賢子が生んだ第一皇女で、白河院の寵愛を一身に集めていたが二一才で死亡した。白河の嘆きは強く、死亡の二日後には出家し、菩提を弔うために六条持仏堂を建立した。この御堂に伊賀国鞆田村を寄進したのが平正盛であり、白河が清和源氏のライバルとして桓武平氏を登用するきっかけとなった。
 高階為遠は尾張守に遷任した。前任者は院近臣藤原為房であったが、嘉承二年五月には六〇才目前で出家を希望しており、その子為隆が連日家を訪問して思いとどまるよう説得した。その後、天永二年(一一一一)には参議に補任され、永久二年(一一一四)には正三位に叙せられ、その翌年に六七才で死亡した。その一門は勧修寺流と呼ばれ、中世を通じて繁栄する基礎を築いたが、姉妹である光子が堀河天皇の乳母となるとともに、藤原公実との間に生んだ璋子が白河院と祇園女御の養女となり、ついで鳥羽天皇の中宮となったことが大きかった。なぜかこの重要な点を指摘した人を知らない。
 嘉承三年正月の除目で出雲守に補任されたのは一四才の藤原顕頼であった。為房は引退を希望している状況であり、その子で顕頼の父顕隆が知行国主であった。前任者の藤原家保は杵築大社造営のため重任することを希望していたが、顕隆の力量が評価されたのだろう。家保の同母兄は基隆で、ともに堀河天皇の乳母を母としていたが、兄基隆がその地位をさらに上昇させたのに対して、家保は受領に再任されることなく生涯を終えている。大江匡房の養子となったことが裏目に出た可能性もあるが、杵築大社造営時の国司は人を選ぶのも確かである。従来の例では在任中に仮殿造営を開始した上で延任・重任が認められており、家保が重任する可能性はなかった。
 顕頼が杵築大社造営と遷宮を終えると二期目をあと一年残して永久二年末に、三河守として二期八年務めた基隆の子隆頼との間で相博が行われた。五味氏は相博される国の経済力は同程度との理解に基づき、院政期の国を六段階に分けて評価している。律令期には四区分の最上位は大国であったが、それに相当するAランクをさらに三つに分けて評価している。それによると、伯耆国は上から四番目のBランクである。Aランクは一五ヵ国である。高階為遠が遷任した尾張国は二番目のA中で、最上位のA上七ヵ国に次ぐ位置にある。『中右記』の筆者藤原宗忠は院近臣でないのに尾張守に補任されたのは異例なことだとして、春に院への御祈物(堀河関係ヵ)を献じたことに対する恩かとしている。いずれにせよ、佐伯氏の評価は事実に基づかないものである。

国司人事と国のランク1

 『山口県史』史料編古代の付録「山口県史の窓」に五味文彦氏「院政時代の周防国と諸国の格付け」が掲載されている。知行国制をみる中で、その国の格付けがわかると便利だと思っていたので、興味深く読んだ。律令時代の格付けはあるが、当然歴史的環境の変化で、地位の向上する地域、低下する地域、変わらない地域があるはずである。
 佐伯徳哉氏の論文で対馬国の問題が論じられていたが、以前には源義親の乱平定後、初めて白河院主導で行われた嘉承三年(一一〇八)正月の除目で、伯耆国が白河院分国とされた上で、それまでの国守高階為遠を尾張守に追いやって、藤原家光が伯耆守に起用されたとの評価が、しっくり来なかったのである。当時はほとんど関連する知識はなかったが、現在では十分ではないが、国守個人と地域についてある程度情報を得ることができた。
 そうした中で、三河守藤原隆頼(幼少であり、父基隆が国主)がまだ就任して間がないのに伯耆守への遷任を希望した申請書をみて、これまた驚いた。両者を比べれば三河国の方が遙かに収入をみこめるのではないかと思ったからである。そこで日本地図をみてみると、都からの距離も両者でそれほど違いがない。
 嘉承二年八月二五日、播磨守藤原基隆が七月一九日に二九才で死亡した堀河天皇のために不動尊像一〇〇体を造立し、すでに四三体の供養が終わり、残りの五七体も毎日一〇体ずつ供養をする予定であった。白河院がその基隆の志を認め、大功だとして基隆の息子三河守隆頼の重任功と認めたのである(中右記)。これを受けて、隆頼から重任ではなく、伯耆守への遷任希望が出されたのである。現任の高階為遠は二期八年の任期が終わろうとしており、それを見越しての申請であった。おそらく同様の申請は他の人物からも出されたであろうが、隆頼のバックには有力な院近臣である基隆がいたのである。基隆は公卿となったが非参議であり、行政的手腕はなかったのかもしれないが、受領を歴任する中で豊かな経済力を持っていた。
 しかし基隆を持ってしても白河院が伯耆国を院分国として近臣藤原家光を国守に補任する意向であればどうしようもない。家光は嘉保三年には郁芳門院の分国淡路の国守であったことが確認できる。五味氏によればこの当時の院分国は一年毎に認められるものであった。これに対して初めて白河主導で行われた嘉承三年の除目以降は、知行国と同様、同一国の院分国が継続して認められるようになった。家光の父は関白頼通の子であったが、正室の嫉妬心のため讃岐守橘俊遠の養子となった。その後、従兄弟にあたる藤原家忠(花山院家)の養子として藤原氏に戻ったが、公卿になることはなかった。

2018年10月 6日 (土)

湯原春綱と大草村の合戦4

 こうした中で三月六日に湯城を出発した春綱らが尼子方を大草村で破り、元就から感状を与えられたが、三月二八日付で児玉右衛門尉元良と桂左衛門大夫元忠に軍忠の詳細を報告した。次いで毛利軍は四月一七日には尼子方が籠城する牛尾城を攻撃し落城させた。このように考えれば、湯原氏による頸注文①と三月六日付の元就感状②を一連の動きの中に位置づけることができる。①②を尼子義久軍との戦いではなく勝久軍との戦いと考えたのは永禄九年五月九日毛利奉行人連署書状の署判者「児玉小次郎元良」から永禄一〇年七月二一日毛利奉行人連署証状の連署者「児玉三郎右衛門尉元良」への変化である。普通なら「小次郎→次郎右衛門尉」であるが、一族内の家を継承するなどの立場の変化があったと考えられる。
 以上により①は尼子勝久による再興戦に関するものとなり、関係史料を確認すると、①は永禄一三年三月二八日湯原春綱頸注文写となる。このような結果になるとは予想だにしなかったが、論理的解釈を積み上げたこの解答の精度は一〇〇%と言わざるを得ない。ようやくのどに引っかかった魚の骨がとれた気がしたが、これまでこの至極当然の作業を行う人がいなかったことが不思議でならない。湯原氏からすれば、毛利氏の尼子氏攻めが始まるといち早く味方となったことをアピールしようとしたかったのであろうが、「頭隠してお尻隠さず」であったため、バレてしまった。 
 『松江市史』の永禄七年に比定できる二月一〇日平佐就之書状の構文で「出雲国安来の湯原氏が毛利氏方に転じたことを伝える」としているが、安来は後でみえる「大東口」に対応するものではないか。春綱の一族が安来浜に屋敷を持っていた可能性が大きいのでこのような解釈が生まれたのだろうが、湯原氏が数百人規模で下城したことからすると、一族の大部分の行為であろう。その後、尼子氏復興戦で、富田城籠城中の湯原氏の中で尼子方に戻ったものが出たのに対して、毛利方にとどまったのが春綱とその子元綱であり、これにより春綱は湯原氏庶子から惣領に転じた。
  なお、両史料集で永禄五年に比定されている正月二六日毛利氏奉行人連署書状二通は
永禄七年のものとなる。

湯原春綱と大草村の合戦3

 さて残るは①②の年次であるが、①の冒頭の「於富田大草村」というのはどのような意味であろうか。大草村は富田城から峠を一つ越えた先にある。そこで②を見ると「富田より動かしめ、敵打ち出るの処」とあり、「富田城に籠城中の尼子方が打ち出てきた」と思い込んでいたが、動かしめとは富田城に籠城していた毛利方のことであり、迎え撃った尼子方と合戦になったとの意味ではないか。湯原春綱と大谷元親は永禄一三年初めには富田城ではなく出雲国西部の高瀬城にいたが、尼子方の攻撃を受ける中、正月二〇日頃には赤穴城まで脱出していた。二月七日に毛利元就が湯原右京進の軍功を賞したのは脱出の際のものであり、『尼子史料集』や『松江市史』が「検討を要す」としたのは誤りである。
 これに対して湯原元綱は永禄一二年半ばには因幡国鹿野城や但馬国諸寄城で在番を行っていた。ところが八月末には尼子勝久を中心とする尼子氏旧臣が出雲国に入国し、毛利方の城を攻略しはじめた。九月後半には富田城攻めも開始されたが、そうした中、籠城中の馬木・河本・湯原氏の中には尼子方に寝返るものもみられた。毛利方は湯原春綱や多賀氏を味方に引き留めるため、一段落したら愁訴中の所領を与えることを約束している。二月七日の時点で出雲国に戻り富田城に籠城していた元綱に対して、父春綱が無事に脱出したことを伝えるとともに、一月末以来各地の尼子方の城を攻め落としたことと、明日には布部・山佐に行き、尼子氏方の防衛線を突破して富田城内の味方と合流することを伝えている。
 次いで二月一三日に布部で合戦があり、勝利した毛利軍は富田城籠城軍と合流するとともに、元就の嫡孫輝元は反撃のため意宇郡日吉に向かった。三月三日には吉川元春が湯原元綱に対して父春綱が無事脱出したことと、現時点では湯要害に籠城していることを伝え、一二日には元就が春綱らを賞している。

湯原春綱と大草村の合戦2

 ③④⑤は永禄六年以前のもので、五年も成り立つのではないかとの意見もあろうが、降伏まで一年半も間があくのは不自然である以外にも問題点がある。
 永禄五年に比定できる六月二三日毛利元就・隆元連署書状(萩閥遺漏四-一)によると、某氏が二日に富田城の尼子方に入れて置いた人質を脱出させて毛利方に寝返った。これをうけて赤穴右京亮も同意して泉山城を明け渡し、羽根山城守・池田藤兵衛尉以下から懇望が毛利氏になされた。これにより尼子方の鰐走城の牛尾太郎左衛門尉は城から退去し、温泉要害も同様で、それ以外もに退去したものや降参したものがあり、石州については毛利氏が完全に掌握したことを述べている。
 六月八日付で元就が、本城越中守からの懇望があったことについて堪忍を求めたことに対して、御分別が示されたのは本望であるとして、出羽民部大輔に今後とも疎略にしない旨を約束した神文を与えている。某とは長らく出羽郷を押領してきた本城氏のことだと思われる。⑦七月三日には毛利氏家臣口羽通良が赤穴氏の家臣である来島氏と由来氏に起請文を与え、⑧八月二七日には毛利元就と隆元が連署で赤穴駿河守と善兵衛尉に神文を与えている。
 ⑦⑧によると毛利方からの懇望に対して赤穴・来島・由木氏が同意したことがわかる。本城氏を含め、毛利氏が寝返りを働きかけてきた結果であった。これに対して③は湯原氏から出された起請文に応える形で出されている。④によると、毛利氏家臣からの書状に対して、湯原氏が起請文を提出したことがわかるが、⑤のように湯原氏からは在所の安堵を求めていた。④⑤の時期を決めるのは連署者の顔ぶれとその官途である。③については、永禄六年九月二七日とした場合、隆元が八月四日に急死した事実と明らかに矛盾しており、本来の起請文の署判者を改変した可能性がある。以上、赤穴氏への神文と比較すると、状況に違いがみられた。

湯原春綱と大草村の合戦1

 ここのところ院政期の知行国制について考えていたため、戦国期の問題を考えるには頭の切り替えと準備が必要だが、以前から気になっていた湯原氏が尼子方から毛利方に転じた際の史料について検討を加えてみる。
 『出雲尼子史料集』の中で 「永禄六」との付年号(後に加筆ヵ)のある①三月二八日湯原春綱頸注文(一二一五号、萩閥湯原、すべて写)について、後世の作であるとの注記があり、これほどの具体的内容の文書を後に作成した理由は何かと思った。同史料集では関連文書である②三月六日毛利元就書状については永禄六年に比定した上で、これまた後世の作としていた。ところがさきほど『松江市史』資料編をみると、②を永禄七年に比定し直し、後世の作との注記はなくなっていた。二つの史料集作成の時間差の中で、長谷川博史氏の判断が変わり、史料集作成に当たった論者を含む他の四人から異論が出なかったのだろう。ただし論者は恥ずかしながら今気づいたのが正直なところである。
 二つの文書が問題となったのは、湯原春綱が籠城していた富田城から下城し毛利方に降ったのは永禄七年ないしは八年の二月初めであることが確認でき、永禄六年に湯原氏が毛利方として尼子方を撃退することは不可能だからである。ところが、③永禄五年九月二七日毛利元就・隆元連署起請文(湯原右京進宛)と④九月二七日児玉元実・桂元忠連署書状(同宛)と「永禄五」との付年号のある⑤九月二七日井上春忠・児玉元実・桂元忠連署書状(同宛)については、両史料集とも正しいものとしている。このような判断は論理的に成り立たないので、混乱するのである。
 湯原春綱の降伏を伝える文書も書状で年号は記されていないが、これを永禄七か八年年に比定するのは問題がなく、これを前提とすると、③④⑤は永禄六年か七年、①②は七年以降のものとならざるを得ないのである。一方、④と署判者が同一の組み合わせなのが、永禄八年二月一〇日の益田刑部少輔宛の打渡状であるが、元実が元良に改名しており、④はこれ以前のものとなる。④はやはり永禄六年か七年のものとなり、文書に記された永禄五年の年号は本来のものを改変したものである。

2018年10月 4日 (木)

大治五年と長承三年の出雲国司2

 同様のことは、後白河院の時代にもあり、藤原朝隆の子朝方が長期に出雲国知行国主の座にあった中、承安四年(一一七四)には院分国としその側近藤原能盛を出雲守に据えた。それまで院北面で国守の経験のない能盛が出雲守になるのは、嘉承三年(一一〇八)正月に出雲国が近臣藤原顕隆に与えられ、その子で一四才の顕頼が出雲守になったケースと同じである。その時点では『中右記』の筆者藤原宗忠は「年纔十四」と驚きを隠せなかったが、源光隆が出雲守に補任されたのは『中右記』によれば九才、その没年と年齢によるならば七才でしかなかった。能盛は三年で院分国とされた周防に遷任するが、その理由もまた杵築大社造営が喫緊の課題となったからであろう。そのために藤原朝方・朝定父子が石見国から出雲国に戻り、そのもとで仮殿造営と遷宮が行われ、次いで正殿造営が開始された。
 ただし飢饉と戦乱の発生もあって造営は遅れた。その救世主となったのが鎌倉幕府を開いた源頼朝であった。待賢門院の娘上西門院(統子内親王)の役人となり、崇德院の側近日野資憲の子親光を御外戚と呼ぶ頼朝に対して、出雲国知行国主藤原光隆もまた待賢門院流の関係者であった。待賢門院との関係もその前提には治天の君である白河院と鳥羽院の存在があり、美福門院庁の役人の中に待賢門院流の人々が多いのは当然であり、これを角田文衞氏のように寝返り・裏切りと捉えるのは一面的な評価である。
 日野資憲との関係で資忠と名乗った内蔵忠光の子を杵築大社神主に起用したのは、それが造営を進めるベストの方法と考えられたからである。忠光は杵築大社領を崇德院に寄進・立券した人物であり、資忠は配流されていた時期の頼朝に対する大功を背景として頼朝に領家藤原光隆への仲介を依頼し、その結果、父忠光以来の神主に返り咲き、建久元年(一一九〇)の杵築大社遷宮を行った。これに対して国造側が後白河院や出雲国在庁官人を巻き込んで抵抗しても結果は資忠の再任であった。

大治五年と長承三年の出雲国司1

 大治五年(一一三〇)末から保延四年(一一三八)末までの出雲守が源光隆であり、出雲国は待賢門院の分国であったことを明らかにしたが、『松江市史』(資料編3 古代中世Ⅰ)をみると、大治五年一二月三〇日に三期以前の責の停止を求めた出雲国司について、「出雲国主藤原為隆」と綱文に記している。この綱文については論者も責任の一端があり、反省しないといけないが、為隆自身は同年九月八日に六一才で死亡しており、この比定は誤りである。誤った理由としては、その次に掲載している百練抄の記事の中で、長承三年四月二五日に出雲守為隆が重任の功を募るために増進した待賢門院の白河御堂の供養が行われたことが記されている。出雲守であったのは為隆の子憲方であり、それも大治三年末までである。『百練抄』は日記の記事に基づき編纂したものであり、その過程で出雲守の名前が間違ったと考えられる。当然「光隆」でなければならない。
 それと関係するのが次に掲載されている『長秋記』の同日の記事で、鳥羽院と待賢門院が得長寿院で心経会を行い、出雲国司が造進した百体の仏像と御堂の供養が行われたことが記されている。得長寿院は天承二年(一一三二)に白河の地に平忠盛が造営した鳥羽院の御願寺で、もう一つの三十三間堂と呼ぶ人もある建造物である。これに対して白河御堂は待賢門院のために造営されたものである。源光隆はその重任の功により、出雲守を重任して保延四年末まで二期八年務め、次いで安芸守に遷任している。安芸守も待賢門院の娘統子内親王の御所を造営した功で重任したが、在任七年目の久安元年(一一四五)七月二五日に二二才で死亡した。この一ヶ月後に待賢門院が四五才で死亡している。光隆が死亡していなければ、安芸国は崇德院の分国に移行したのではないか。
 まさに、出雲国と安芸国を待賢門院の分国とすることで、国守が院並びに娘の内親王の施設を造営したのである。出雲国から安芸国に遷任したのは、杵築大社造営が現実の問題となってきたので、院近臣の有力者(その結んだ婚姻関係は当時の近臣で最多ではないか)藤原清隆を知行国主として、その子光隆とともに安芸国から遷任させたのである。

 

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