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2018年10月 6日 (土)

湯原春綱と大草村の合戦4

 こうした中で三月六日に湯城を出発した春綱らが尼子方を大草村で破り、元就から感状を与えられたが、三月二八日付で児玉右衛門尉元良と桂左衛門大夫元忠に軍忠の詳細を報告した。次いで毛利軍は四月一七日には尼子方が籠城する牛尾城を攻撃し落城させた。このように考えれば、湯原氏による頸注文①と三月六日付の元就感状②を一連の動きの中に位置づけることができる。①②を尼子義久軍との戦いではなく勝久軍との戦いと考えたのは永禄九年五月九日毛利奉行人連署書状の署判者「児玉小次郎元良」から永禄一〇年七月二一日毛利奉行人連署証状の連署者「児玉三郎右衛門尉元良」への変化である。普通なら「小次郎→次郎右衛門尉」であるが、一族内の家を継承するなどの立場の変化があったと考えられる。
 以上により①は尼子勝久による再興戦に関するものとなり、関係史料を確認すると、①は永禄一三年三月二八日湯原春綱頸注文写となる。このような結果になるとは予想だにしなかったが、論理的解釈を積み上げたこの解答の精度は一〇〇%と言わざるを得ない。ようやくのどに引っかかった魚の骨がとれた気がしたが、これまでこの至極当然の作業を行う人がいなかったことが不思議でならない。湯原氏からすれば、毛利氏の尼子氏攻めが始まるといち早く味方となったことをアピールしようとしたかったのであろうが、「頭隠してお尻隠さず」であったため、バレてしまった。 
 『松江市史』の永禄七年に比定できる二月一〇日平佐就之書状の構文で「出雲国安来の湯原氏が毛利氏方に転じたことを伝える」としているが、安来は後でみえる「大東口」に対応するものではないか。春綱の一族が安来浜に屋敷を持っていた可能性が大きいのでこのような解釈が生まれたのだろうが、湯原氏が数百人規模で下城したことからすると、一族の大部分の行為であろう。その後、尼子氏復興戦で、富田城籠城中の湯原氏の中で尼子方に戻ったものが出たのに対して、毛利方にとどまったのが春綱とその子元綱であり、これにより春綱は湯原氏庶子から惣領に転じた。
  なお、両史料集で永禄五年に比定されている正月二六日毛利氏奉行人連署書状二通は
永禄七年のものとなる。

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