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2018年10月10日 (水)

国司人事と国のランク4

 就任して一年に満たない院近臣藤原家成が讃岐守からA上ランク播磨守に遷任したが、前任の基隆も播磨守就任一年未満であった。待賢門院の御願寺法金剛院の供養が終わり、その造寺賞で基隆は一〇月五日に修理大夫を兼ね、二五日には従三位に叙せられた。播磨守が基隆から家成に交替したのはそのためであるが、出雲国知行国主については交替する必要はない。その一方で出雲国を待賢門院の分国とし、その関係者の子弟で幼少の光隆(一時は基隆後家の猶子であった)を国守にすることが持ち上がったための、異例の人事であった。
 待賢門院の分国は二期八年続き、光隆は妻の父で待賢門院判官代である高階家行とともに、重任、遷任の功を積み、保延四年(一一三八)末にA下ランク安芸守に遷任した。出雲国では杵築大社造営が目前の課題となっていたため、院近臣の実力者藤原清隆とその子光隆の安芸国と相博する形となった。光隆の申状にあったように、白河院が実権を握った嘉承三年正月の除目以降、院への成功とともに、院の御願寺への庄園寄進が相次ぎ、造営費用の確保と国内の所領への賦課は困難となっていた。これに対応するための実力者の起用であった。清隆は永治二年(一一四二)初から保元二年(一一五七)末までの子の定隆と光隆を国守としてA中ランク備中国の知行国主の地位にあった。また、久安四年(一一四八)から二期八年間伯耆守であった平親範は清隆の娘を母としており、こちらも清隆が実権を握っていた可能性が高い。
 五味氏の国のランクに戻ると、奈良時代に比べて九州と関東・東北諸国の地位低下が目立つ。大国であった肥後国はCランクに下がり、大宰府のある筑前国も上国からCランクとなり、これに肥前国を加えた三ヵ国以外はすべてDランクである。関東・東北諸国も奈良時代には大国六、上国三、中国一であったのが、Bランク五、Cランク五となっている。歴史人口学の成果によれば、院政期の関東・東北地方は人口増加が目立ち、それが奥州藤原氏の繁栄と鎌倉幕府の成立を可能としたとされる。両者の整合性について検討してみる必要がある。

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