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2018年10月 6日 (土)

湯原春綱と大草村の合戦3

 さて残るは①②の年次であるが、①の冒頭の「於富田大草村」というのはどのような意味であろうか。大草村は富田城から峠を一つ越えた先にある。そこで②を見ると「富田より動かしめ、敵打ち出るの処」とあり、「富田城に籠城中の尼子方が打ち出てきた」と思い込んでいたが、動かしめとは富田城に籠城していた毛利方のことであり、迎え撃った尼子方と合戦になったとの意味ではないか。湯原春綱と大谷元親は永禄一三年初めには富田城ではなく出雲国西部の高瀬城にいたが、尼子方の攻撃を受ける中、正月二〇日頃には赤穴城まで脱出していた。二月七日に毛利元就が湯原右京進の軍功を賞したのは脱出の際のものであり、『尼子史料集』や『松江市史』が「検討を要す」としたのは誤りである。
 これに対して湯原元綱は永禄一二年半ばには因幡国鹿野城や但馬国諸寄城で在番を行っていた。ところが八月末には尼子勝久を中心とする尼子氏旧臣が出雲国に入国し、毛利方の城を攻略しはじめた。九月後半には富田城攻めも開始されたが、そうした中、籠城中の馬木・河本・湯原氏の中には尼子方に寝返るものもみられた。毛利方は湯原春綱や多賀氏を味方に引き留めるため、一段落したら愁訴中の所領を与えることを約束している。二月七日の時点で出雲国に戻り富田城に籠城していた元綱に対して、父春綱が無事に脱出したことを伝えるとともに、一月末以来各地の尼子方の城を攻め落としたことと、明日には布部・山佐に行き、尼子氏方の防衛線を突破して富田城内の味方と合流することを伝えている。
 次いで二月一三日に布部で合戦があり、勝利した毛利軍は富田城籠城軍と合流するとともに、元就の嫡孫輝元は反撃のため意宇郡日吉に向かった。三月三日には吉川元春が湯原元綱に対して父春綱が無事脱出したことと、現時点では湯要害に籠城していることを伝え、一二日には元就が春綱らを賞している。

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