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2018年10月10日 (水)

国司人事と国のランク3

 顕頼と隆頼が相博した三河国はBランク、出雲国はCランクである。Bランクの因幡・伯耆に対して、出雲・石見・隠岐はCランクである。律令制下では因幡・伯耆・出雲は上国、石見は中国、隠岐は下国であった。この三ヵ国の当時の水田面積は石見は出雲の半分程度、隠岐は石見の半分以下であるが、どのような背景があるかは不明である。いずれにせよ四年任期の中で、その年の国守が交替する国も全体の四分一程度と限られ、その前提の中で、知行国主を含めて決定される。
 隆頼は出雲守を重任したが、七年が経過した保安二年(一一二一)末にBランク若狭守に遷任し、藤原憲方が出雲守に補任された。初任で幼少であり、父為隆が知行国主として支配にあたったと思われる。憲方も重任したが七年が経過した大治三年(一一二八)一二月二九日にA下ランク周防守藤原経隆と相博した。憲方が周防守に遷任した理由について、大日方克己氏は父為隆が一年前に周防権守に補任されていたため、為隆の要請で子憲方が補任され、大治五年九月に為隆が死亡するまでこの体制が続いたとされた(「平安後期の出雲国司」)が、関係史料の確認をされなかったようである。翌大治四年二月一七日には、父子が同任なのは憚りがあり(長秋記)、便宜がない(中右記)として、左大弁であった父為隆を讃岐権守に遷任させている。氏は出雲国司中心に述べられたため、遷任後の周防国司関係史料への関心が低下したのであろうか。
 経隆は隆頼の異母弟で、周防守就任時は幼少で父基隆が知行国主であった可能性が高い。この時点で自身はA上ランク伊予守である一方で、経隆の同母兄弟で嫡子であるA中ランク備中守忠隆の知行国主であったと思われ、経隆自らが出雲守として支配に当たっていたことも考えられる。ところが、二年が経過する直前の大治五年一〇月二七日に九才の藤原光隆が出雲守に補任され、経隆は院近臣の指定席であるA上ランク讃岐守に遷任した。

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