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2018年10月21日 (日)

国司重任と神社造営2

 承元年間(一二〇七~一一)に出雲国は鳥羽院分国とされたが、建久元年造営から二〇年経っておらず、杵築社造営は課題とはなっていない。承久二年には杵築社造営を求める声は出ていたが、承久の乱が大きな影響を与えた。朝廷は後高倉院に近く、幕府との関係が良好な持明院家行を知行国主としたが、嘉禄二年に五二才で死亡し、後任の二条定輔も補任の翌年である嘉禄三年七月に六九才で死亡した。ちょうど七月には杵築社仮殿遷宮が行われている。一〇月に後任の知行国主となった平有親もまた不遇な時代の後高倉院に仕えおり、久安元年の遷宮を行った藤原光隆の孫であった。今回もまた、宝治二年に遷宮が完了するまで知行国主の地位にあり、子の時継に交替した。時継は後嵯峨院の子後深草天皇の蔵人頭となったこともあって、結果としては持明院統系に身を置くこととなる。
 文永元年一〇月一五日には知行国主は四条隆親に交替し、時継は加賀国へ遷任した。隆親は後嵯峨院のもとで評定衆となったが、後深草の乳母夫であり、後深草との関係が深かった。この時点で出雲国は後深草院の分国となったと思われる。杵築社は宝治二年造営であり、新たな造営が始まるのは約二〇年先のはずであった。ところが、文永七年正月に本殿が焼失し、造営に着手せざるを得なかった。院分国と両立が困難なのは正殿造営であったが、仮殿造営に手間取る中、文永一二年には吉田経俊が知行国主となった。この時点で後深草院の分国ではなくなった。
 弘安五年に出雲国は亀山院の分国となった。それに伴い、後深草院は出雲国長江郷の替わりに土佐国永武郷を寄進したが、長江郷の寄進は亀山院によって継承された。弘安六年三月二八日に平兼有が出雲守に補任されたが、兼有は持明院統系の人物であり、この時点で出雲国は亀山院分国から知行国(国主は不明)に変更されたと思われる。その理由はなお杵築社仮殿(本来の仮殿ではなく規模の小さい正殿)造営が行われていたためである。前に鎌倉末期の出雲国司について述べた際は、後深草の分国としたが訂正する。これ以降、幕府が滅亡するまで出雲国では断続的に杵築社造営が行われており、院分国とするメリットは薄れていた。重任して造営を完成させることもなく、短期間で知行国主と国守が交替していることからも、それは明白である。

 

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