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2018年10月13日 (土)

日野氏と頼朝2

 関連して、待賢門院女房と日野氏について、角田文衞氏『待賢門院璋子の生涯』の中で、待賢門院関屋は藤原忠興の娘で、実光の弟資光の妻であることと、待賢門院阿波は資光の娘であることが記されている。『尊卑分脈』には忠興については娘がいたことのみ記されている。資光の方は息子盛業の母が忠興の娘であることが記され、『中右記』には久寿三年正月条に資憲の子俊光と資光の子盛業が、待賢門院の子後白河天皇の蔵人に補任されたことが記されている。俊光は「春宮尚寝」の、盛業は「新院蔵人」の経験者であった。春宮は前年九月に父後白河の春宮となった二条(守仁)であり、新院は崇德であろう。そして俊光の母は新院女房阿波であり、盛業の母は故待賢門院女房関屋であることが記されている。
 これをうけて、角田氏は阿波もまた関屋の子であろうと推定された。阿波は一一三〇年一二月末には待賢門院の熊野詣に同行しており、その後、女院の死により上西門院ではなく崇德院の女房となり、なお健在であった。一一一〇年頃に生まれ、資憲と同程度の年齢であろう。一方関屋はすでに死亡している。待賢門院が死亡した一一四五年以前に亡くなった可能性が高いが、その子盛業は同時に蔵人に補任された従兄弟である資憲の子俊光に対して一〇才以上年上とは考えられない。俊光が二〇才(一一三六生)なら、盛業はせいぜい三〇才(一一二六年生)となる。すると姉阿波とは一六才以上の年齢差が生じ、阿波の異母弟の可能性が大きい。ということで、角田氏の推定は誤りである可能性が大きい。
 資光は一一一八年に三五才で中宮璋子のもとで中宮少進となり、六年後の一一二四年に院号宣下がなされると待賢門院庁判官代となった。一一二八年一二月の待賢門院庁牒には別当の一人として「大学頭兼式部少輔藤原朝臣」と署名している。そして五〇才で死亡するまで一五年間務めた。その中で女房関屋との間に盛兼が生まれたと思われる。資憲は妻阿波の父資光が死亡した二年後の一一三五年に待賢門院の皇太后宮権大進に補任されている。一一四一年末と四四年九月には鳥羽院庁下文の署判者としてみえる。それが四四年末に下野守を辞職して、石見守であった池禅尼の兄弟宗長と交替し、本人は崇德院庁の業務に専念したと思われる。四五年八月には待賢門院が死亡し、その分国や庁分・円勝寺領・方金剛院領は崇德が管理することとなったと思われる。崇德は三三才、妹の統子内親王(上西門院)は二〇才、弟の雅仁親王(後白河)は一九才であった。

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