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2018年10月 6日 (土)

湯原春綱と大草村の合戦2

 ③④⑤は永禄六年以前のもので、五年も成り立つのではないかとの意見もあろうが、降伏まで一年半も間があくのは不自然である以外にも問題点がある。
 永禄五年に比定できる六月二三日毛利元就・隆元連署書状(萩閥遺漏四-一)によると、某氏が二日に富田城の尼子方に入れて置いた人質を脱出させて毛利方に寝返った。これをうけて赤穴右京亮も同意して泉山城を明け渡し、羽根山城守・池田藤兵衛尉以下から懇望が毛利氏になされた。これにより尼子方の鰐走城の牛尾太郎左衛門尉は城から退去し、温泉要害も同様で、それ以外もに退去したものや降参したものがあり、石州については毛利氏が完全に掌握したことを述べている。
 六月八日付で元就が、本城越中守からの懇望があったことについて堪忍を求めたことに対して、御分別が示されたのは本望であるとして、出羽民部大輔に今後とも疎略にしない旨を約束した神文を与えている。某とは長らく出羽郷を押領してきた本城氏のことだと思われる。⑦七月三日には毛利氏家臣口羽通良が赤穴氏の家臣である来島氏と由来氏に起請文を与え、⑧八月二七日には毛利元就と隆元が連署で赤穴駿河守と善兵衛尉に神文を与えている。
 ⑦⑧によると毛利方からの懇望に対して赤穴・来島・由木氏が同意したことがわかる。本城氏を含め、毛利氏が寝返りを働きかけてきた結果であった。これに対して③は湯原氏から出された起請文に応える形で出されている。④によると、毛利氏家臣からの書状に対して、湯原氏が起請文を提出したことがわかるが、⑤のように湯原氏からは在所の安堵を求めていた。④⑤の時期を決めるのは連署者の顔ぶれとその官途である。③については、永禄六年九月二七日とした場合、隆元が八月四日に急死した事実と明らかに矛盾しており、本来の起請文の署判者を改変した可能性がある。以上、赤穴氏への神文と比較すると、状況に違いがみられた。

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