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2018年10月10日 (水)

国司人事と国のランク2

 郁芳門院は中宮藤原賢子が生んだ第一皇女で、白河院の寵愛を一身に集めていたが二一才で死亡した。白河の嘆きは強く、死亡の二日後には出家し、菩提を弔うために六条持仏堂を建立した。この御堂に伊賀国鞆田村を寄進したのが平正盛であり、白河が清和源氏のライバルとして桓武平氏を登用するきっかけとなった。
 高階為遠は尾張守に遷任した。前任者は院近臣藤原為房であったが、嘉承二年五月には六〇才目前で出家を希望しており、その子為隆が連日家を訪問して思いとどまるよう説得した。その後、天永二年(一一一一)には参議に補任され、永久二年(一一一四)には正三位に叙せられ、その翌年に六七才で死亡した。その一門は勧修寺流と呼ばれ、中世を通じて繁栄する基礎を築いたが、姉妹である光子が堀河天皇の乳母となるとともに、藤原公実との間に生んだ璋子が白河院と祇園女御の養女となり、ついで鳥羽天皇の中宮となったことが大きかった。なぜかこの重要な点を指摘した人を知らない。
 嘉承三年正月の除目で出雲守に補任されたのは一四才の藤原顕頼であった。為房は引退を希望している状況であり、その子で顕頼の父顕隆が知行国主であった。前任者の藤原家保は杵築大社造営のため重任することを希望していたが、顕隆の力量が評価されたのだろう。家保の同母兄は基隆で、ともに堀河天皇の乳母を母としていたが、兄基隆がその地位をさらに上昇させたのに対して、家保は受領に再任されることなく生涯を終えている。大江匡房の養子となったことが裏目に出た可能性もあるが、杵築大社造営時の国司は人を選ぶのも確かである。従来の例では在任中に仮殿造営を開始した上で延任・重任が認められており、家保が重任する可能性はなかった。
 顕頼が杵築大社造営と遷宮を終えると二期目をあと一年残して永久二年末に、三河守として二期八年務めた基隆の子隆頼との間で相博が行われた。五味氏は相博される国の経済力は同程度との理解に基づき、院政期の国を六段階に分けて評価している。律令期には四区分の最上位は大国であったが、それに相当するAランクをさらに三つに分けて評価している。それによると、伯耆国は上から四番目のBランクである。Aランクは一五ヵ国である。高階為遠が遷任した尾張国は二番目のA中で、最上位のA上七ヵ国に次ぐ位置にある。『中右記』の筆者藤原宗忠は院近臣でないのに尾張守に補任されたのは異例なことだとして、春に院への御祈物(堀河関係ヵ)を献じたことに対する恩かとしている。いずれにせよ、佐伯氏の評価は事実に基づかないものである。

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