koewokiku(HPへ)

« 出雲守藤原季仲1 | トップページ | 出羽国の格付1 »

2018年10月23日 (火)

出雲守藤原季仲2

 一方、『柳原家記録四六 除目大聞書』によると嘉保元年(一〇九四)二月二二日の除目で出羽守に「従五位上藤原朝臣季仲」が補任されている。これも頭弁季仲とは別人で、この人物が出雲守季仲と同一人物であろう。この史料は『大日本史料』にも収録されている周知のものである。ただし、出雲国では守以外の四名が新たに補任されているが、守は記されておらず、これ以前に藤原季仲から高階重仲に交替していたことになる。
 出雲守季仲は藤原長良(基経の実父)の子清経の子孫範永と藤原永頼の娘の間に生まれた。範永と同様、季仲も受領を歴任した。系図には出羽守のみ記されるが、出雲守からの遷任であった。季仲の兄弟良綱の娘が高階泰仲の妻となり、重仲の異母兄弟である清泰と泰尋を産んでいる。なお出雲守季仲時代の注目すべき点としては寛治五年(一〇九一)四月一七日には佐陀神社竈殿が炎上し、それと並行する形で存在した大神宝殿と三若宮神殿並びに御神体が焼失したことである。これにともない再建が行われたはずであるが、関係史料は全く残っておらず、その実態は不明である。再建・造営事業は後任の高階重仲の時代にも続けられたと思われる。重仲も出雲守退任後、間をおいて近江守に補任されているが、初の国司として出雲守を務めたことになる。
 出羽守藤原季仲の存在については「国司一覧」(『日本史総覧』)巻末の国司索引をみればすぐに確認できるが、以上のように、大日方氏は確認作業を欠いたまま思い込んでしまったのである。院政期の国司については、論じる対象が出雲守のみであっても全国の補任状況を確認しないと論じることはできないのである。
不記(2021/05/13)大日方氏は天仁元年(実は改元前の嘉承三年)二月二二日に山陵使として嵯峨に派遣される予定であった「元使出雲守藤原季仲」を大日本史料の編者の注記のように顕頼の御記とするが、顕頼はその一月前に補任されたばかりであることと、「顕頼」を「季仲」と誤記する(即位雑例条々兼日に収録する際)ことは考えられない。柏原に派遣される予定であった「元使下野守源朝臣経兼」、村上に派遣される予定であった「元使肥後守藤原為宣」はそれぞれ「前下野守」、「前肥後守」の誤りであり、「前出雲守」の誤りならありうることである。また「出羽」を「出雲」と誤記した例は存在するので、本来は「前出羽守藤原季仲」ではなかったか。

« 出雲守藤原季仲1 | トップページ | 出羽国の格付1 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 出雲守藤原季仲2:

« 出雲守藤原季仲1 | トップページ | 出羽国の格付1 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ