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2018年10月27日 (土)

天仁元年の仮殿遷宮2

 前任の藤原家保も造営を根拠に重任を希望したが、実現しなかった。重任するためには、一期目の在任中に仮殿造営が終わり、正殿造営が開始されていなければならないが、政府は家保の申請を許可しなかった。源義親の乱の影響もあろうが、兄基隆が白河院の死後も鳥羽院の有力近臣の座を確保したのに対して、家保は大江匡房の養子になっていたことも影響したのか、従四位上に叙せられたのみで新たな任国は獲得できなかった。基隆と家保は母が堀河天皇の乳母であったことが、その地位の背景となったが、堀河の死後は明暗を分けた。
 ということで、嘉承三年正月に出雲守に補任された顕頼はすぐに大社造営を申請し、政府に認められて仮殿造営を開始し、一一月一五日には遷宮を終え、次の正殿造営を開始した。ところがここで大きな問題が発生した。造営のための材木が出雲国内では準備できなかったのである。その背景としてより規模を大きくした可能性もあるが、この当否については確証はない。従来は出雲国の正税+αで造営されていたが、前回の治暦三年の遷宮事業からは、臨時に一国平均役を賦課することも行われるようになった。
 顕頼による造営事業は顛倒により始まったのではなく、計画的なものであったが、予期せぬ理由から一年半以上中断し、天仁三年七月に因幡国から大木の提供をうけることで再開した。ただし、供給元が因幡国のみかどうかは不明である。因幡守は顕頼の叔父長隆であったが、因幡国からの提供は最初から意図されたものではなく、結果としてそうなったものである。
 話を天仁元年の仮殿造営に戻すと、写す際に天仁二年であったのを誤ったのではないかとの疑問が生じる余地はない。④には遷宮の日付が「十一月十五日辛酉」としるされており(その前後の日付も同様)、これにより天仁元年であることは確実なのである。図録の編者がなぜ天仁二年説を採用したのかは理解不能である。ちなみに、二〇一三年発行の「平成の大遷宮 出雲大社展」の図録の巻末の年表では、仮殿遷宮は記されていないが、天仁二年に顛倒があったと記しており、これも②を無批判に採用したものであった。出雲大社境内からの巨大な柱の発見から一八年が経過しているので、そろそろ正しい研究成果を踏まえた図録を発行してもらいたい(その他の問題点もあるがこれについては別に述べる)。そうしないと、意図の有無とは関係なく結果として歴史を偽造することになる。

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