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2018年10月10日 (水)

国司人事と国のランク1

 『山口県史』史料編古代の付録「山口県史の窓」に五味文彦氏「院政時代の周防国と諸国の格付け」が掲載されている。知行国制をみる中で、その国の格付けがわかると便利だと思っていたので、興味深く読んだ。律令時代の格付けはあるが、当然歴史的環境の変化で、地位の向上する地域、低下する地域、変わらない地域があるはずである。
 佐伯徳哉氏の論文で対馬国の問題が論じられていたが、以前には源義親の乱平定後、初めて白河院主導で行われた嘉承三年(一一〇八)正月の除目で、伯耆国が白河院分国とされた上で、それまでの国守高階為遠を尾張守に追いやって、藤原家光が伯耆守に起用されたとの評価が、しっくり来なかったのである。当時はほとんど関連する知識はなかったが、現在では十分ではないが、国守個人と地域についてある程度情報を得ることができた。
 そうした中で、三河守藤原隆頼(幼少であり、父基隆が国主)がまだ就任して間がないのに伯耆守への遷任を希望した申請書をみて、これまた驚いた。両者を比べれば三河国の方が遙かに収入をみこめるのではないかと思ったからである。そこで日本地図をみてみると、都からの距離も両者でそれほど違いがない。
 嘉承二年八月二五日、播磨守藤原基隆が七月一九日に二九才で死亡した堀河天皇のために不動尊像一〇〇体を造立し、すでに四三体の供養が終わり、残りの五七体も毎日一〇体ずつ供養をする予定であった。白河院がその基隆の志を認め、大功だとして基隆の息子三河守隆頼の重任功と認めたのである(中右記)。これを受けて、隆頼から重任ではなく、伯耆守への遷任希望が出されたのである。現任の高階為遠は二期八年の任期が終わろうとしており、それを見越しての申請であった。おそらく同様の申請は他の人物からも出されたであろうが、隆頼のバックには有力な院近臣である基隆がいたのである。基隆は公卿となったが非参議であり、行政的手腕はなかったのかもしれないが、受領を歴任する中で豊かな経済力を持っていた。
 しかし基隆を持ってしても白河院が伯耆国を院分国として近臣藤原家光を国守に補任する意向であればどうしようもない。家光は嘉保三年には郁芳門院の分国淡路の国守であったことが確認できる。五味氏によればこの当時の院分国は一年毎に認められるものであった。これに対して初めて白河主導で行われた嘉承三年の除目以降は、知行国と同様、同一国の院分国が継続して認められるようになった。家光の父は関白頼通の子であったが、正室の嫉妬心のため讃岐守橘俊遠の養子となった。その後、従兄弟にあたる藤原家忠(花山院家)の養子として藤原氏に戻ったが、公卿になることはなかった。

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