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2018年10月 4日 (木)

大治五年と長承三年の出雲国司1

 大治五年(一一三〇)末から保延四年(一一三八)末までの出雲守が源光隆であり、出雲国は待賢門院の分国であったことを明らかにしたが、『松江市史』(資料編3 古代中世Ⅰ)をみると、大治五年一二月三〇日に三期以前の責の停止を求めた出雲国司について、「出雲国主藤原為隆」と綱文に記している。この綱文については論者も責任の一端があり、反省しないといけないが、為隆自身は同年九月八日に六一才で死亡しており、この比定は誤りである。誤った理由としては、その次に掲載している百練抄の記事の中で、長承三年四月二五日に出雲守為隆が重任の功を募るために増進した待賢門院の白河御堂の供養が行われたことが記されている。出雲守であったのは為隆の子憲方であり、それも大治三年末までである。『百練抄』は日記の記事に基づき編纂したものであり、その過程で出雲守の名前が間違ったと考えられる。当然「光隆」でなければならない。
 それと関係するのが次に掲載されている『長秋記』の同日の記事で、鳥羽院と待賢門院が得長寿院で心経会を行い、出雲国司が造進した百体の仏像と御堂の供養が行われたことが記されている。得長寿院は天承二年(一一三二)に白河の地に平忠盛が造営した鳥羽院の御願寺で、もう一つの三十三間堂と呼ぶ人もある建造物である。これに対して白河御堂は待賢門院のために造営されたものである。源光隆はその重任の功により、出雲守を重任して保延四年末まで二期八年務め、次いで安芸守に遷任している。安芸守も待賢門院の娘統子内親王の御所を造営した功で重任したが、在任七年目の久安元年(一一四五)七月二五日に二二才で死亡した。この一ヶ月後に待賢門院が四五才で死亡している。光隆が死亡していなければ、安芸国は崇德院の分国に移行したのではないか。
 まさに、出雲国と安芸国を待賢門院の分国とすることで、国守が院並びに娘の内親王の施設を造営したのである。出雲国から安芸国に遷任したのは、杵築大社造営が現実の問題となってきたので、院近臣の有力者(その結んだ婚姻関係は当時の近臣で最多ではないか)藤原清隆を知行国主として、その子光隆とともに安芸国から遷任させたのである。

 

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