koewokiku(HPへ)

« 出羽国の格付2 | トップページ | 天仁元年の仮殿遷宮2 »

2018年10月27日 (土)

天仁元年の仮殿遷宮1

 平成二七年(二〇一五)度島根県立古代出雲歴史博物館特別展「遷宮」の図録を今になってはじめて見たが、いくつか気になる点があるので、確認したい。
 表題は天永三年の正殿遷宮の前提となる仮殿遷宮であるが、図録の「出雲(杵築)大社連宮関連年表では仮殿遷宮が天仁二年に記されており、驚ろかされた。天仁元年であることは一〇〇%証明できるというのが本ブログの見解である。これに対して同二年に顛倒があり、それをうけての仮殿遷宮との解釈である。根拠となるのは①承久二年大社政所遷宮例注進(文書名は適切なものに修正)、②弘安四年国造義孝申状(これを宝治二年のものとする見解は冗談以下のレベルである)、③年未詳(一四世紀後半ヵ)造営注文(これを鎌倉末のものとするのも同様)とする(近世のものは除外)。
 ②については以前も述べたように、神主をめぐる対立の中で作成された政治的文書であり、他の史料での検証なくしては使ってはならない。①は基本的には信頼性は高いが、時に年号と前回からの年数がずれていることがあり、検証が必要である。ちなみに井上寛司氏『日本中世国家と諸国一宮制』(二〇〇九年)では天仁元年とされている。『大社町史』(一九九一)では天仁二年と解釈されていたのを修正された形である。根拠となるのは、建久元年の正殿遷宮の直前に国造孝房が神主に補任された時期に写して作成された杵築大社造営遷宮旧記注進である。これも『鎌倉遺文』で宝治二年前後のものとされ、(編者竹内氏からすればとりあえず関連文書のところに配置したもの)それが造営問題を論じた論文で検証されず放置されてきたものである。天永三年の遷宮については鎌倉初期に国造が誤って永久二年の遷宮と解釈した後、放置されてきた。
 天永三年の遷宮は、嘉承三年正月に出雲国知行国主に藤原顕隆、国守にその子顕頼を起用して準備して行われたものである。祖父為房が国主であったとの可能性も主張されるが、尾張守であった為房は嘉承二年五月には出家しようとして子の為隆の説得によりこれをなんとか先に延ばした状況にあった。その後、参議に補任され公卿とはなったが、その政治的意欲は低下していた。顕隆らの活躍はその能力にもよるが、為房の姉妹に堀河・鳥羽両天皇の乳母となり、後の待賢門院となる女子を産んだ光子(従三位に叙せられる)の存在が大きかった。顕隆ら兄弟は待賢門院の従兄弟になる。女院の兄弟である西園寺・徳大寺氏(同母兄)や三条氏(異母兄)の栄達についてはよく知られているが、それは勧修寺流についても同様であった。

« 出羽国の格付2 | トップページ | 天仁元年の仮殿遷宮2 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 天仁元年の仮殿遷宮1:

« 出羽国の格付2 | トップページ | 天仁元年の仮殿遷宮2 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ