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2018年10月21日 (日)

国司重任と神社造営1

 仁安三年(一一六八)一一月に厳島神社神主佐伯景弘が、現国司を厳島社神殿舎屋修造功により重任させることを求めている。その当時、厳島神社の造営が進行中であったと思われる。国司は平清盛の側近藤原能盛で、嘉応二年(一一七〇)四月の時点で現任しており、申請は認められた。造営がいつ完成したかに関する史料はないが、承安三年(一一七三)二月には後任である高階成章の現任が確認でき、これ以前には終了していた。重任申請からすると、能盛が安芸守に補任されたのは長寛三年初であろう。二年一二月には伊予国知行国主平清盛の目代として弓削島庄住人の解状に「壱岐守藤原朝臣」と署判を加えて外題安堵している。
 佐伯景弘は申請にあたって国司が重任して神社を造営した例として、伊勢国多度社(藤原資成が永万二年一二月二四日重任)、駿河国浅間社(藤原為保が仁安三年五月一一日重任)、常陸国鹿島社(藤原盛輔が大治五年五月二五日重任)、下総国香取社(藤原親通が保延四年一一月六日重任)、越前国気比社(高階盛章が保延元年一二月二日重任)、備中国吉備津社(藤原定綱が康平七年一二月二一日重任)、紀伊国日前国懸熊野新宮丹生社等三箇所(小槻孝信が承暦四年一二月六日重任)とともに、杵築社(藤原顕頼が天永二年一二月二四日重任)をあげていた。
 備中国と紀伊国の例は白河院が実権を持ち、複数年の院分国(女院を含む)が認められる以前であるが、それ以降の安芸国を含む七例はいずれも院分国ではない。すでに述べたように、国内の有力神社の造営と院分国の設定は両立しないのである。
 出雲国では保延四年一二月末に待賢門院分国から藤原清隆知行国に移行し、待賢門院分国は安芸国に移った。厳島神社造営・遷宮の年次は不明だが、仁安三年に造営が進行中であり、保延四年末の時点で厳島造営が始まる可能性は低かったと思われる。安元三年に出雲国が院分国から藤原朝方の知行国に戻されたのは杵築社造営が課題となったからであった。院近臣で院分国前の出雲国知行国主で事情をわかっている朝方を再任した。結果的には朝方は建久元年の遷宮を行い、死亡する直前まで知行国主であった。

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