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2018年10月 6日 (土)

湯原春綱と大草村の合戦1

 ここのところ院政期の知行国制について考えていたため、戦国期の問題を考えるには頭の切り替えと準備が必要だが、以前から気になっていた湯原氏が尼子方から毛利方に転じた際の史料について検討を加えてみる。
 『出雲尼子史料集』の中で 「永禄六」との付年号(後に加筆ヵ)のある①三月二八日湯原春綱頸注文(一二一五号、萩閥湯原、すべて写)について、後世の作であるとの注記があり、これほどの具体的内容の文書を後に作成した理由は何かと思った。同史料集では関連文書である②三月六日毛利元就書状については永禄六年に比定した上で、これまた後世の作としていた。ところがさきほど『松江市史』資料編をみると、②を永禄七年に比定し直し、後世の作との注記はなくなっていた。二つの史料集作成の時間差の中で、長谷川博史氏の判断が変わり、史料集作成に当たった論者を含む他の四人から異論が出なかったのだろう。ただし論者は恥ずかしながら今気づいたのが正直なところである。
 二つの文書が問題となったのは、湯原春綱が籠城していた富田城から下城し毛利方に降ったのは永禄七年ないしは八年の二月初めであることが確認でき、永禄六年に湯原氏が毛利方として尼子方を撃退することは不可能だからである。ところが、③永禄五年九月二七日毛利元就・隆元連署起請文(湯原右京進宛)と④九月二七日児玉元実・桂元忠連署書状(同宛)と「永禄五」との付年号のある⑤九月二七日井上春忠・児玉元実・桂元忠連署書状(同宛)については、両史料集とも正しいものとしている。このような判断は論理的に成り立たないので、混乱するのである。
 湯原春綱の降伏を伝える文書も書状で年号は記されていないが、これを永禄七か八年年に比定するのは問題がなく、これを前提とすると、③④⑤は永禄六年か七年、①②は七年以降のものとならざるを得ないのである。一方、④と署判者が同一の組み合わせなのが、永禄八年二月一〇日の益田刑部少輔宛の打渡状であるが、元実が元良に改名しており、④はこれ以前のものとなる。④はやはり永禄六年か七年のものとなり、文書に記された永禄五年の年号は本来のものを改変したものである。

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