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2018年10月23日 (火)

出雲守藤原季仲1

 杵築社の造営旧記には出雲守藤原兼平が重任をして熊野・揖屋・水訳三社の造進を行ったことが記されている。補任されたのは永保二年(一〇八二)正月である。二期八年務めると寛治五年正月に退任となるが、実際には寛治三年正月に和泉守に遷任しており、出雲守在任は六年であった。その後任について、『松江市史』通史編1古代の関係部分を執筆した大日方氏は、高階重仲であるとするが、重仲の現任が確認できるのは寛治六年四月二八日のことであり(『中右記』)、その一年前の寛治五年五月九日には朝廷により主要神社への臨時の奉幣が行われたが、派遣された使者の一人として「季仲 出雲守」がみえる(『後二条師通記』)。大日方氏はそれを承知の上で、「重仲の誤りか」と判断された。問題は必要な確認を行った上での妥当な判断だったかである。
 この時期に「頭弁」藤原季仲という人物が史料に頻出しているが、蔵人頭兼左中弁を務めていた。嘉保元年(一〇九四)六月一三日には参議兼左大弁正四位下「藤季仲」とみえる(『中右記』)。この季仲と出雲守季仲が同一人物ではありえないことから、大日向氏は「季仲」は「重仲」の誤りであるとして、兼平の後任は季仲ではなく重仲とされたのだろう。兼平は藤原実頼流の経季の子(母藤原定頼女)であるが、その異母兄弟(母藤原邦恒女)に季仲がおり、この人物が「頭弁」季仲であった。高階重仲の姉妹である女性が季仲の室の一人となり、その子懐季・実明等の母となったことが系図にはみえる。後に大宰権帥として赴任した筑前国で延暦寺末寺による濫行を鎮圧した際に日吉社神人を殺害してしまい、これに反発した延暦寺の強訴を招いた。朝廷は事態の沈静化のため季仲を捕らえ、流罪に処した。季仲は最終的な配流地常陸国で元永二年(一一一九)に六四才で死亡し、その子も解官された。

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