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2018年9月24日 (月)

薗山庄領家吉田経房2

 経房は保元三年には親範の姉妹の一人との間に嫡子定経が生まれているので、結婚によって皇后宮権大進の地位を得たと思われる。また、同年には親範の嫡子基親が出雲守に補任されている。今回は前年に親範が非参議公卿(従三位)に進んでおり、知行国主は親範であった。経房の所領として出雲国薗山庄があるが、この時期に寄進されたものではないか。上西門院領であったかどうかは微妙である。
 次いで、翌四年二月に院号宣下により皇太后が上西門院となると、経房は権大進を辞任して上西門院判官代となった。一方、閏五月末には平基親が出雲守から伯耆守に遷任している。近江国知行国主であった藤原朝隆が死亡したため、知行国主が交替し、近江守であった朝隆の子朝雅は、新たに出雲国知行国主となった叔父親隆のもとで出雲守に遷任した形となった。その際に名前も朝雅から朝親に変更している。
 経房は安房守を五年余り務めた後に、永万二年には昇殿を認められ、二条天皇の子六条天皇の蔵人となったが、仁安三年二月に六条が退位し後白河院の子高倉天皇が即位するとその蔵人となり、天皇の母平滋子が立后されると皇太后宮大進になり、次いで嘉応元年四月に滋子に院号宣下が行われると建春門院判官代となった。承安三年には建春門院の御願寺最勝光院供養の功により従四位上に叙され、治承三年一〇月には高倉天皇の蔵人頭に補された。
 その直後の一一月に平家のクーデターにより後白河院が幽閉され、高倉天皇の親政が開始されると、後院別当に補任され、次いで安徳天皇が即位するとその蔵人頭に補任された。治承五年には参議に補任されて公卿に列し、寿永二年正月には従三位に叙せられた。このように清盛ら平氏本流に直接登用されたわけではないが、後白河院と平氏の中で順調に出世を遂げてきた経房であったが、寿永二年一〇月に東国支配権を院から認められた頼朝との密接な関係が注目された。

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