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2018年9月30日 (日)

頼朝の御外戚親光

 この問題について補足する。佐々木紀一氏「源義忠の暗殺と源義光」(『山形県立米沢女子短期大学紀要』四五号、二〇〇九年)をみていたら、頼朝の祖父為義の母が日野資憲の母方の祖母の姉妹であることが明らかであることを実感したのである。
 『台記』の人名索引は当分参照できそうもないので、史料纂集本『台記』一について関係する人物が登場するかチェックしてみた。精読したわけではないので、見落としはあろうが、そこには資憲の名前は確認できなかった。二と三もあるが、時間の制約とともに、一冊で疲れてしまい、後日に行うこととした。佐伯智広氏の論文の中で資憲に関するものとして引用されていたのは『兵範記』仁平二年(一一五二)三月一六日条であったが、今回『台記』で確認したのは久安四年(一一四八)までである。
 その中で、康治元年八月三日条に前左衛門尉為義は義家の子であるとの記述が目にとまった。当然、系図の記述よりこちらが正しい可能性が高い。また、佐々木紀一氏がその説を唱えていることを知り、冒頭の論文を確認した。氏の勤務先の紀要の論文がネット上に公開されているのは、大江氏について調べた際に確認していた。すると、頼長の父忠実の日記『殿暦』が引用され、天仁二年(一一〇九)二月一七日条にも「義家朝臣四郎男為義」とあり、義家の嫡子義忠暗殺に関して叔父義綱の追捕が命じられたことが記されていた(当然、『台記』にも言及あり)。事件の背景には暗殺の嫌疑をかけられた源重美とその兄弟重時兄弟(経基の子満政の子孫)と義家(満仲の子孫)一族の対立があるとした元木泰雄氏の説もある。関係系図を通して検討した佐々木氏は、『尊卑分脈』の記載は、為義の嫡流相続が不慮の事件の結果ではなく、本来嫡子である義親の子で、且つ当初より義家により源氏の正嫡として定められたとする権威付けが『尊卑』注記の作為の動機であらうとし、様々な風説が生まれる背景はあるが、真相は不明とせざると得ないとしている。
 話を戻すと、頼朝は自らの祖父為義の母の父有綱と親光の祖母の父(母方の有定、父方の有信)が兄弟であったため、親光を「御外戚」と呼んだのである。さらには親光の父資憲が頼朝が仕えた上西門院の兄崇德院の側近であったことから、これを大切に扱ったのである。頼朝への大功により出雲大社神主に補任された内蔵資忠、平家方となったが罪を許されたのみならず本領を安堵された因幡国住人長田実経(父高庭介資経が頼朝が伊豆に配流された際に一族の藤七資家を派遣。「藤七」から長田氏が藤原姓であったことがわかる)はいずれもその父等が日野資憲との緊密な関係を結んでいた。 

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