koewokiku(HPへ)

« 薗山庄領家吉田経房4 | トップページ | 日野資憲の三人の男子 »

2018年9月26日 (水)

久安三年の摂関家

 久安三年(一一四七(三月二八日に藤原忠実の七〇才賀が行われた。すでに子の忠通には嫡子基実が生まれ、忠実・頼長との間に亀裂が生じ始めていた中での祝いの会であった。その中で饗宴の費用を負担したのは①近江国(上達部三〇前・殿上人一〇前・穏座衝重二〇前)、②安芸国(女院殿上二〇前)、③伊賀国(女院衝重二〇前)、④備後国(諸大夫三〇前)、⑤和泉国(楽人・舞人二〇前)、⑥淡路国(楽人・舞人二〇前)、⑦石見国(入道殿御共人前駈二〇前)であった。
 最も負担の大きい①近江国は大国で忠実自身の知行国(国守源憲俊)であった。②の安芸国も上国で忠実の知行国(国守源雅国)であり、雅国の子国保が国守である⑦石見国は中国であるが、負担内容からみても忠実の知行国であったことは明白であろう。この忠実知行国三ヵ国に対して、③(下国、国守藤原信経)、④(上国、国守源信時)は忠通の知行国である。⑤(下国)の国守藤原光盛は、佐渡守に遷任後、中宮権大進となり、久寿二年一〇月二三日には忠通の北政所の法事の奉行を行い、且つ保元の乱後も生き残り、忠通の家司としてみえるので、この時点でも和泉国が忠通知行国であった可能性が高い(光盛は日野資憲と資長の兄弟光盛か)。            
 これで忠通の知行国も三ヵ国となったが、残る⑥淡路国(下国)は藤原朝隆が知行国主で、嫡子朝方が国守であった。朝隆は摂関家家司であったが、院近臣としてもみえ、摂関家からの独立性は高かったのではないか。その他の摂関家家政機関の職員(小舎人所・政所・御厩・御車副・政所法師)の屯食は摂関家領(殿下御領)が負担している。
 石見国守(源国保)と対馬国守(忠通の側近源季兼)が相博していることから、石見国も忠通の知行国ではないかと思う人があるかもしてないが、以上のことからも源国保が石見守であった時点の知行国主が忠実であったことは明らかであろう。

« 薗山庄領家吉田経房4 | トップページ | 日野資憲の三人の男子 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 久安三年の摂関家:

« 薗山庄領家吉田経房4 | トップページ | 日野資憲の三人の男子 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ