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2018年9月 5日 (水)

金持広栄について

 一三世紀前半の伯耆国守護金持氏は宝治合戦で三浦氏方となったことによりその勢力を低下させたが、なお伯耆国内にも所領を有しており、後醍醐が船上山の戦いに勝利すると、そのもとに参陣した。後醍醐が都へ帰還する際に金持大和守(広栄)が錦の御旗を持っていたことがみえ、建武三年二月の窪所結番と四月の武者所結番には金持大和権守広栄がみえる。
 元弘三年八月二日、備前国新田庄内安養寺に対して、藤原広栄が禁制を発している。これは金持広栄であり、勲功の賞として新田庄内を与えられ、安養寺側からの要請を受けた広栄がそれに応えたものであろう。一方では、因島庄に対する伯耆守一族杵築氏による押領や若狭国名田庄に対する布志名雅清家臣による押領が訴えられていた。七月一〇日には安養寺衆徒代高角が、備前国大将軍となった三石地頭伊東大和九郎宣祐の催促に応じて御方となり、兵粮米の沙汰と祈祷を行ったことの披露を奉行所に求めている。
 広栄は南北朝の動乱開始後も南朝方として活動しているが、一族の中には幕府方となったものがいたことはすでに述べた通りである。そこで注目されるのが、年未詳七月七日金持金王丸挙状である。建武三年四月一一日には備前国大将石橋和義が尊氏の意を奉じて安養寺に備前国藤野保内国衙分田田地二町を寄進している。筑前多々良浜の戦いで勝利した尊氏が上洛している最中のことであった。まさに南朝方の金持氏の基盤を切り崩すものであった。安養寺衆徒もこれに応えて赤松入道円心のもとで軍忠を積むとともに、六月一七日に社頭で厳重霊瑞がみられた際にも祈祷を行ったとして、足利尊氏に対して料所の寄進を求めている。
 この申状に関する挙状を、当給主金持金王丸が七月一七日付で奉行所に提出している。奇瑞に関する問に答えるとともに、安養寺衆徒が祈祷を行うことを命じた綸旨に任せて祈祷を行っていることを述べたものである。金王丸は広栄の関係者で、新田庄の管理にあたっていた人物であろうが、安養寺衆徒とともに幕府方として行動している。問題はその提出先であるが、御方御忠により新田庄を御官領した人物とは、建武政権の備前国守護でありながら幕府方に転じた松田盛朝ではないか。
 建武四年に比定される年月日未詳安養寺衆徒申状によると、去年三月頃に石橋和義が児島から将軍家御祈祷を行うように命じ、それを受けて一一日から七日間祈祷を行い、それを言上したところ、守護松田氏と加地新左衛門尉を奉行として奇瑞感見之輩について召尋ねがあったとしており、金王丸挙状はこれに対する報告であった。
 以上、伯耆国金持広栄が勲功の賞として備前国新田庄を与えられた事と、動乱開始後、幕府はそれを闕所として守護松田氏に与え、新田庄に残っていた金持氏一族の中にも幕府方となるものがあったことを述べた。広栄自身はその後も南朝方として行動している。

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