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2018年9月 2日 (日)

石見国益田庄御旧封古事記2

 次いで益田兼見の父兼方についてはほとんど情報が無いが、万福寺過去帳からの引用だとして「延文二丙五月廿二日 得生院殿即阿兼方大居士」と記す。延文二年(一三五七)の時点では兼見はなお反幕府方であり、正平一二年が正しいと思われるが、後に北朝年号に改めたのであろう。同年は丁酉年であるが五月は丙午月であり、「丙五月」には問題がない。正平八年頃、幕府方に戻ろうとした兼世・兼利父子が殺害され、庶子であった兼見が惣領となったと思われるが、その時点では兼方は生存していたことになる。兼方は兼世とともに兼弘の子である。兼弘は阿忍への不義理により伊甘郷を悔い返されたが、兼見は自らが弥冨郷を支配するのは、正和五年二月に阿忍がその孫子に分与したことを根拠としており、阿忍の曾孫兼方もその中に含まれていたと思われる。
 兼見は阿忍領であった伊甘郷地頭となっており、次いで益田氏惣領となったとの説もあるが、観応の擾乱以前の幕府方としての兼見の軍忠状を見る限り、従者も少なく、小規模な所領の地頭であったと思われる。同様に、尼永安良海が嫡子兼貞への譲与を悔い返して、庶子経兼(幕府方であった際には経明)を惣領とするが、それ以前の恒明の軍忠状も従者が少ない。良海は三隅氏の庶子永安氏であったが、吉川氏から婿養子を迎えた。ただ、その後、弟兼員が永安氏惣領となったこともあって、良海の嫡子は経貞と「兼」を付けていないが、庶子経兼は「兼」を付けていた。南北朝動乱が開始されると大多数の吉川氏は幕府方となったが、永安氏の本家三隅氏は南朝方であった。良海の子は三隅氏とは異なり幕府方となり、その関係で経兼は経明と改名した。ところが観応の擾乱の直前に、良海は反幕府方に転じ、嫡子経貞を義絶するとともに、新たに惣領とした経明の名を本来の経兼に戻した。

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