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2018年9月27日 (木)

待賢門院流

 待賢門院は藤原公実と藤原隆方の娘光子との間に生まれた。これまで待賢門院の兄弟である男子に注目してきた。三条氏(異母兄実行)、西園寺氏(同母兄通季)、徳大寺氏(同母兄実能)の祖となり、その一流は中世を通じて朝廷内で重要な位置を占め、庄園を所有してきた。これに対して待賢門院のライバルとなった美福門院の一族はそれほど勢力を温存できなかった。一方、待賢門院の母光子の一一才年上の兄が為房であり、その子為隆・顕隆・重隆・長隆・朝隆・親隆は待賢門院の従兄弟となり、為隆流からは吉田氏が、顕隆流からは葉室氏が出ており、こちらも待賢門院流と呼ぶことができる。
 待賢門院の死後、庄園と知行国は嫡子崇德上皇が管理したが、保元の乱で院が配流されたため、待賢門院分は娘の上西門院が継承し、崇德院分は後院領として後白河が継承したと思われる。中には領家の判断で本家を変えたケースもあったであろう。保元の乱で待賢門院流が消滅したわけではなく、関係者のつながりは維持された。幕府を開いた源頼朝も待賢門院流に属していたがため、待賢門院と崇德院の所領であった庄園に対しては配慮を示した。
 待賢門院流の人々には、白河院や鳥羽院の近臣であった関係者もいた。藤原基隆や平忠盛である。両者とも待賢門院の別当をつとめ、基隆の嫡子忠隆は顕隆の娘で崇德院乳母であった栄子を妻とし、両者の間に生まれたのが平治の乱の原因を作った信頼であった。基隆の子で出雲守となった隆頼は源師隆の娘を妻としていたが、師隆の妻は為房の娘であり、その娘には持明院通基との間に基家を生んだ女性や、待賢門院官女で上西門院乳母であった女性がいた。師隆の兄弟(俊房の子から師忠の養子となる)の娘には藤原頼長との間に兼長を生んだ女性や源雅国との間に石見守となった国保を生んだ女性がいた。
 平忠盛の正室宗子(池禅尼)の父宗兼の姉妹隆子は鳥羽院の近臣藤原家成の母であるが、崇德の乳母であった。そのためか、宗子は崇德の嫡子重仁の乳母となっていた。忠盛のみならず宗子も待賢門院流に属していたが。その兄弟宗長は和泉守から卜部兼仲と相博する形で保延四年(一一三八)年に石見守に遷任し、天養元年(一一四四)末には崇德院の側近日野資憲が崇德院庁の別当に専念するために辞任した下野守に遷任している。その時点の石見・和泉・下野国は待賢門院から継承した崇德院の分国であった可能性が高い。
 上記の関係者は鳥羽院の寵愛を受けるようになった美福門院との間にも関係を持っているが、鳥羽院の近臣という立場にもあり、不自然なことではない。何度も述べたが、崇德院と鳥羽院・美福門院との関係が悪化するのは近衛天皇が死亡し、後白河が天皇に即位してからである。皇室領は美福門院の子八条院に継承された八条院領と後白河が自らが長講堂や蓮華王院、最勝光院に集積した所領に待賢門院・上西門院と継承された所領を併せて形成された庄園に分かれた。 

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