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2018年9月19日 (水)

ブログ開設10周年目前5

 満弘は石見国守護となり、益田兼見の娘と結婚して子ども(満世)も生まれた。そうした中、至徳二年に義弘が、石見国守護を交代させ、新介を派遣した。石見国と安芸国ではそれぞれ南北朝期以来の対立があり、それが再発しかねない状況となったため、義弘が先手を打って、満弘の身を確保しようとして、益田氏に引き渡しを求めた。これを益田氏が拒否したため、大内氏による益田氏攻撃の可能性が大きくなった。安芸国でも国人による押領が続いており、公家・寺社側の要請を受けて押領を停止しようとする幕府と国人の間の矛盾が大きくなっていた。実際に幕府派と反幕府派の国人の間で至徳二年七月に大規模な衝突が発生しており、幕府と義弘からすると反幕府派と満弘が結びつくことは絶対阻止しなければならなかった。
 これに対して、益田兼見(祥兼)は婿である満弘をやすやすと引き渡すことはできなかった。また、福屋氏など康暦二年に満弘を支持した国人の多くは足利直冬時代に反幕府方として所領を拡大しており、幕府と義弘が繰り返し要求した本主への所領返還に抵抗していた。もっともわかりやすいのが高橋氏であり、幕府方の出羽氏の苗字の地出羽郷の大半は16世紀前半に高橋氏が滅亡するまで高橋氏が支配していた。
 文書の年次比定に戻ると、満弘がまだ「三郎」と呼ばれている。満弘は名前のみか姓(多々良)のみ記すことが多く、その時期は確定できないが、和解して益田兼見の娘と結婚したことで、至徳二年に対立が再燃した時点では官職(後には伊予守に補任されていた)を得ていた可能性が大である。また、至徳二年には義弘は周布入道の息子弾正少弼兼仲とも連絡をとっているが、この文書には兼仲についてはまったく言及されていない。以上の理由から、文書は康暦二年のものであると100%断言できる。至徳二年の時点では、防長両国は義弘の支配が確立しており、石見・安芸国と違い、書状に記されている下山城合戦が起こる状況になく、実際に史料も残ってはいない。
 ということで目次氏と中司氏の論考のごく一部について、再検討を期待するとともに、論文が発表されっぱなしではなく、どんどん検討・議論され、研究が深化することを期待してこの文を終えたい。

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