koewokiku(HPへ)

« 石見国益田庄御旧封古事記2 | トップページ | 中世前期の伯耆国武士団2 »

2018年9月 4日 (火)

中世前期の伯耆国武士団1

 治承三年(一一七九)二月二二日 坪上山(汗入郡)の合戦で原田(東郷)家平とその従兄弟である俊兼・俊家兄弟が討死している。相手は野津蔵人仲吉(仲義)と小鴨基泰であった。この合戦については、今回ようやく知ったが、原田氏側にも他の一族の与力もあり大規模なものであったと思われる。小鴨氏は伯耆国衙在庁官人で伯耆国東部に勢力を持っていたとされ、摂関家(近衛家)領笏賀庄と松尾社領東郷庄の寄進者である原田氏とは競合関係にあったと思われる。
 これに対して、寿永元年(一一八二)八月には伯耆国住人紀成盛(海六)と小鴨介基保の間で大規模な合戦があり、今回は紀成盛側が勝利を収めた。幾千とも言われる死者が出たとの噂が流れるほどのものであった。前回のこともあって出雲・石見・備後国などから与力があったという。この前回の戦いが坪上山の合戦であり、紀(村尾)氏を支援する原田氏が野津氏と小鴨氏の連合軍に敗れたのであろう。
 小鴨氏と紀氏の対立は大山寺縁起にも記され、紀海六が佐摩党(汗入郡大山町内の長田の東南3kmに佐摩あり)とともに小鴨と結ぶ大山寺鏡明房を討ち取っている。その後、養和元年(一一八一)二月二八日には小鴨氏が紀氏と結ぶ大山寺修禅房を攻撃している(大山寺縁起詞書には養和六年とするが、誤りヵ)。
 元暦元年二月二日には、後白河院の子と称する宮を紀海六業盛が支援して伯耆国半国を支配する勢いであることが記されている。ただし、紀氏のライバルである小鴨基康はこれに従っていないという。この直前の一月二〇日には源義仲が近江国粟津で敗死し、直後の二月七日には一の谷合戦が行われている。源平盛衰記には小鴨基康・村尾海六・日野郡司義行の名前がみえる。小鴨基康については平家方として問題ないが、村尾海六の場合は派遣したのはポーズであろう。
 その後、紀海六の名はみえないが、この宮の擁立が原因となって鎮圧された可能性がある。ただし、鎌倉末期には内河右頼の娘が伯耆守長年と紀姓の三能(会見郡美吉)為成の妻となっており、為成は船上山合戦で長年方となっている。これに対して幕府との関係が深かった小鴨氏は敗走する清高軍を攻撃する伯耆守長年の軍によって城を攻め落とされている。この時点の伯耆守護は六波羅探題南方の北条時益、守護代は糟屋氏であった。

« 石見国益田庄御旧封古事記2 | トップページ | 中世前期の伯耆国武士団2 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 中世前期の伯耆国武士団1:

« 石見国益田庄御旧封古事記2 | トップページ | 中世前期の伯耆国武士団2 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ