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2018年9月19日 (水)

ブログ開設10周年目前2

 ブログでは論集『石見の中世領主の盛衰と東アジア海域世界』に収録された二つの論文に対して多くの疑問を提示したが、他の論文も例外ではない。ただ、現時点では十分分析していないので、以下では気になる二つの点だけ指摘する。
 論集では目次謙一氏が周布氏について論じているが、その最初の部分を呼んで声を失ってしまった。最近、ブログの読者から以下のコメントをいただいた。研究者であるか否かを含めどのような方かは不明であるが、土屋氏や名和氏の系図について教示いただいた。「来原氏について、先学の書々も周布氏庶流の国御家人としていたので、実際は東国御家人とは、思いもよらず驚きともに新知見を得られて勉強になりました。」。情報の提供を求められたので、HPに来原(田村)氏と越生氏の系図のPDF版をアップした(「質問に関連して」のコーナー)。
 論者が周布氏について知ったのは一九八三年に県立浜田高校に赴任したことがきっかけである。当時、歴史部の顧問が部員と周布氏の鳶ノ巣城の研究に取り組んでいるのに参加させていただき、周布氏の所領について整理してみた。そこで、周布氏の一族とされている田村氏がその一族ではなく、本来は独立した国御家人であるとの理解に到達した。史料をみれば誰ですぐに分かるレベルの問題であるが、萩閥の編者も他の研究者も巻末の系図の記載を鵜呑みにしていたのである。国御家人であるとしたのは、南北朝期には所領名に由来する来原氏を名乗っていたからである。ということで論者の理解では田村氏が周布氏の一族であるとの説は一九八三年に崩壊していたはずであった。
 次いで「益田氏系図の研究」に取組む中で確認した萩博物館所蔵の周布氏系図に姻族の系図として収録されていたのが、来原氏と越生氏の系図であった。来原氏は南北朝期に周布氏庶子を婿養子を迎えた。ところがまもなく、周布氏を相続する嫡子が死亡したため、庶子が呼び戻されて周布氏を継承したのである。これにより来原氏領が周布氏領に吸収された形となった。そして驚いたことには、田村氏初代資盛は東国御家人で、鎌倉初期に来原郷を得ていたことがわかった。次いで資盛の子が武蔵国御家人越生氏の養子に入り有政と名乗り武蔵国岡崎村を譲られたが、その後、承久の乱の恩賞で宇津郷を得た。一族は岡崎氏と宇津氏に分かれたが、岡崎氏の一族光氏が狩野氏と所領を交換して、石見国加志岐別符を得、その姉妹が周布兼宗との間に周布兼氏を産んだ。

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