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2018年9月19日 (水)

ブログ開設10周年目前6

  終わったはずであったが、中司氏と川岡氏の論文は扱った対象が共通する部分が多いにもかかわらず、論じ方はまったく異なっており、読者は戸惑うのではないか。二人の間で、徹底した議論が行われた上で、それぞれの観点から論文が作成されたのならかまわないが、そのようには感じられない。自分で史料を精読したのは一五世紀初頭までなので、個々の論点を論評をする準備はないが、一つだけ共通して気になった点について述べたい。
 それは中世後期の石見国政治史を論ずる上で重要な大内氏による邇摩郡分郡支配である。両者ともそれがいつ始まったのかについて明記していない。検討結果の提示は必要不可欠である。川岡氏は大内氏と石見国衆の歴史的つながりを大内氏が幕府と国衆を仲介する前提とし、応永の乱で石見国守護職を手放したとはいえ、石見国の隣国である周防・長門国守護であり、石見国内にも分郡を有する存在であったと記すのみで、分郡守護の説明は具体性に欠けている。中司氏は応永の乱で大内義弘が滅ぼされたが、周防・長門で幕府方に盛見が屈しなかったことを述べた上で、石見国でも大内氏は邇摩郡を勢力圏として保持し続けるなど、依然として大きな影響力を持ち続けたと述べており、仮にセンター試験で中司氏が大内氏が邇摩郡を勢力圏として保持しはじめた時期として考えているのはいつかとの出題があれば、「応永の乱以前から」が正解となるであろう。
 この問題については、以前、大内盛見が防長守護職を認められた際に、邇摩郡分郡守護権を認められたという井上寛司氏の説を検討し、分郡支配を認められたのは応永末年であり、それは石見国における様々な国人間の問題解決(吉見氏、桜井氏、佐波氏等)に大内氏が貢献したことに対する恩賞であったとの分析結果を示した。吉見氏庶子木部氏と吉見氏惣領の対立と桜井氏による桜井庄押領については述べられるが、桜井氏による都治氏領の乗っ取りや佐波氏庶子千束氏が高橋氏と結んで惣領家を乗っ取ろうとした問題については触れられていない。
 「貞治~応永年間の芸石政治史」の中でも、分郡支配を最初に認められたのは応永七年の山名時久で、邇摩郡を除く石見国守護が山名氏利であったことを明らかにした。応永の乱以前には大内氏が邇摩郡内に所領を有することはあったが、分郡守護ではなかった。
 その時に痛感したのは、このテーマに関する松岡久人氏と岸田裕之氏の古典的研究の再検討である。中国地方の中世史と言えば、この二人と河合正治氏がパイオニアである。今と比べたら史料収集は数十倍大変な中での三氏の著作物は大変な労作ではあるが、現在の状況を踏まえて、批判的に発展させないと何も生まれない。三氏の業績(河合氏については中世前期の毛利氏研究は根本的見直しが必要である)を無条件の前提として論文を書くことなど、研究に必要不可欠なものを欠いた作業にしかならない。言わば「昔の名前で出ています」の世界である。雑誌『史学研究』に掲載されている論文にはそのようなものが散見され、これまた声を失ってしまう。
 愚痴ばかり述べてもしょうがないので、とりあえず論文を岸田氏に送付することとしたい。昨年六月には第二陣として送るつもりで、『大名領国の構成的展開』に記された自宅でよいことを島大長谷川氏に確認したところで、足を痛めてしまい、その治療に追われる中、島根県教育委員会の面々にも送る機会を逃してしまった。こちらにも送付したい。併せてそちらから住所を確認して「応永の安芸国人一揆の再検討」の著者飯分徹氏にも送りたい。ちなみに個人以外では、広島大学の日本史研究室並びに益田市・浜田市・江津市、その外には第一陣として送付した。その時点では広大退官後龍谷大に勤務されていた岸田氏への送付先が不明であったので、送っていなかった。

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