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2018年9月 4日 (火)

中世前期の伯耆国武士団4

 頼綱の父泰経は藤原北家良門流の兼輔の末流であるが、この一族は因幡・伯耆・出雲国司としてこの地域の勢力との間に関係を築いてきたと思われる。兼輔の子雅正の子為長の孫が泰経であるが、雅正の子為頼の孫頼成は一一世紀前半に因幡守を務め、その子清綱と孫忠清は一一世紀後半に出雲守を務めている。忠清の兄弟隆時は因幡・但馬・近江守を歴任し、その子が院近臣で、子光隆が出雲守であった際に知行国主として杵築大社造営・遷宮を行った清隆である。兼輔のもう一人の子守正の曾孫成親と章俊は一一世紀後半に出雲守を務めている。
 一二世紀後半の伯耆守は、平治の乱以降は平清盛の関係者が務めることが多いが、その一方で院近臣である平範家-親範-基親が一一四八~一一五六、一一五九~一一六六と足掛け一五年間、伯耆国司(知行国主と国守)を務め、庄園の立券・寄進にも関わっている。範家の妻は清隆の娘であり、両者の間に生まれたのが親範であった。親範が伯耆守であった際の知行国主は父範家ないしは母方の祖父清隆であろう。平基親は高倉天皇・平徳子に仕え、治承三年の政変で解官されているように、清盛よりも後白河との関係が強かった。
 清隆とその子光隆・定隆は、安芸国・備後国・備中国・美作国司も務めており、中国地方中部から東部に大きな勢力を持っていた。清隆は待賢門院別当となる一方で、妻家子が近衛天皇の乳母となっていた。その多数の子女を通じて他の院近臣の有力者との間に姻戚関係を持っていた。その遺産により一三世紀初めに死亡した子光隆までは有力な院近臣の立場を維持していた。伯耆国乃津判官の台頭の背景に清隆流の存在があったと思われる。

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