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2018年9月10日 (月)

石田六郎左衛門尉に関する補足

 石見石田家文書の石田氏が、安芸国から入部したと主張していることに関連して、毛利氏と棚守氏との連絡役としてみえる石田六郎左衛門尉について言及したが、若干の点を補足したい。
 石田六郎左衛門尉の実名は未だ確認できていないが、使者としてみえる文書は棚守氏関係文書には天文九年(一五四〇)から天正一〇年(一五八二)まで確認できる(なお中間段階である)。大内氏からの文書にもみえるので、石田六郎左衛門尉は棚守氏側の人間ということになる。
 厳島神社神主は承久の乱以降、その時々の政治情勢の影響を受け変化しているが、一五世紀中頃の神主教親(親春)は毛利氏氏一族の長屋氏から養子に入ったとされる。棚守氏は神領衆野坂氏(厳島神社文書の中で厳島野坂文書は大きなウェイトを占めている)の出身であるとされるが、その中興の祖である棚守房顕(多くの文書を残し、記録も作成)は元亀二年一二月二七日厳島社遷宮行列式書立(『広島県史古代中世資料編2』)には「大江朝臣房顕」とみえ、毛利氏の一族であることがわかる。「顕」の字も大江広元の子孫の名前にはよく使われる字である。
 ということで、石田六郎左衛門尉は毛利氏ではなく棚守氏の関係者であったが、一方で棚守氏は毛利氏の一族であった。この石田氏の一族が石見国に入部し、毛利氏家臣として活動するというのは十分可能性があることになる。また、石田六郎左衛門尉の名について「春軄」ではないかとしたが、年未詳三月二九日毛利隆元書状には「春軄房」を派遣したことが記されており、両者は同一人物である可能性があり、その場合は石田六郎左衛門尉とは別人となる。以上、安芸国の事には全く不案内であるが、とりあえず『広島県史古代中世資料編2』を走り読みした中間報告である。

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