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2018年9月24日 (月)

薗山庄領家吉田経房3

 その背景として、上西門院のもとで皇后宮権大進と皇后宮権少進を務めた関係や、経房とその兄や子が頼朝が配流されていた伊豆国の国司であったことが指摘されているが、その前提として、両者、あるいはその家が両方とも待賢門院関係者と密接な関係があったことがあげられる。父光房の同母兄憲方が待賢門院の御願寺法金剛院東新造御所を造進したこともある。経房自身が当初は妻の実家である平範家の支援により出世していくが、範家の背後には妻の父藤原清隆がいた。もう一人の妻藤原顕憲の娘は忠実の子頼長の従姉妹になる。その関係で兄弟である盛憲と経憲は頼長の側近となり、盛憲は崇德院の殿上人であった。両者は保元の乱では崇德・頼長方として敗北し、それぞれ佐渡国と隠岐国に配流されている。ただし。、盛憲の子清房は祖父顕憲跡の継承を認められ、その子重房が九条頼経の鎌倉への下向に同行して御家人となり、上杉氏の実質的祖となる。 寿永元年七月には経房の家臣である前馬允以親以下が出雲国薗山庄に派遣されたことが経房の日記にみえ、経房が薗山庄領家であったことがわかる。次いで文治二年七月には薗山庄前司師兼が頼朝に対して、下司職への還補について経房への働きかけを依頼し、頼朝が経房宛の書状を出したことが記されている。師兼は頼朝の母由良御前の弟祐範の子仁憲に仕えており、その縁から頼朝に働きかけたと思われる。
 正治二年二月二八日藤原経房処分状には薗山庄がみえないが、前欠部分に記されていたと思われる。本来は嫡子為経に譲られるはずであったが、その前年に無断で出家してしまい、当座は為経の母=経房の妻に譲り、一期の後に嫡孫資経に譲られることになったのであろう。
 経房領には五辻斎院(頌子内親王)を本家とする所領、経房が仕えていた建春門院の御願寺最勝光院に寄進した所領、待賢門院の娘上西門院の所領、嫡子為経の妻の父平親範(経房の妻の兄弟)の所領、家司を務めた摂関家領等があるが、最も時期的に早いのは、三代相伝領とされるものである。その中の一つ伊勢国和田庄は九条家の庄園であった。一方、美濃国平田庄内市俣郷は、寄進の私領ではないが、三代知行し、正治二年の時点では宣陽門院領であった。宣陽門院は後白河院の娘覲子内親王で、父後白河院領(長講堂領、上西門院領)を譲られたものであった。三代知行なので上西門院領で、和田庄とともに経房の祖父為隆の時期に知行(領家の立場)を認められたものであろう。薗山庄も同様であろう。

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