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2018年9月19日 (水)

ブログ開設10周年目前3

 次に、昨年四月に公開した「貞治~応永年間の芸石政治史」の中で言及した文書についてである。論文では無年号文書の年次比定をかなり修正したが、当然、通説のままでよいとした文書もあった。その一つが一〇月八日大内義弘書状(周布入道宛)である。一昨年三月に刊行された『中世益田・益田氏関係史料集』では当方は系図を担当していたが、最終段階で関係文書の年次比定の修正(多くは康暦年間から至徳年間に)をしてもらった。その後、刊行された史料集をみたところ、変更の必要はないと考えたものまで「至徳二年ヵ」とされており、もう少し詳しく連絡しておけばよかったと後悔した。
 その後、一昨年一一月の島根県中世史研究会で「貞治~応永年間の芸石政治史」を報告した際には、逆に史料集の担当者である中司健一氏から至徳年間のものではないかとの質問を受けた。中司氏は大内義弘軍が長門国阿武郡へ打ち入ったのに続いて、「益田辺」へ打ち入るとあることから、これは大内氏が益田氏を攻撃することを意味しているので、至徳年間に変更されたようであった。たしかにその部分のみを切り取れば、そのような解釈がなされることはそれほど不自然なことではない。ただし、書かれた全体の内容を総合的に見る限り、これは康暦二年のもので、大内義弘軍は長門国から対立する満弘の支持者がいる石見国に攻め入ったことが記されており、益田氏の立場はこの史料からは不明であると解釈し、その旨を答えた記憶がある。
 今回、中司氏の論文に当該文書を「至徳二年ヵ」とした別の理由が記されていたので、検討してみる。そこでは、①長州さかりやまの合戦の月日が異なること、②益田氏が義弘と対立していることなどから考えて、康暦二年とは別の年次と考えてよいとし、引用した史料の「十月八日」の部分に「(至徳二年ヵ)」との注記がなされている。②については論者が初めて明らかにし、論証した点なので問題はないが、①はどうであろうか。

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