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2018年9月19日 (水)

ブログ開設10周年目前4

 月日が違うというのは、大内義弘と大内満弘の対立が最初に表面化したのが康暦二年五月一〇日の長門国下山(栄山)城であることとの間の違いである。ただし、五月一〇日は満弘方が義弘方の下山城を攻撃し、不意をつかれた義弘方の二七人が討死したものである。これに対して一〇月五日の合戦は義弘方が満弘方に奪われていた下山城を奪還した際のもので、月日が違うのは当然である。満弘方の三〇余人が切腹し、残る三〇余人の降参したので、義弘方は阿武郡に打入ることとなった。
 義弘と満弘の合戦については、康暦二年五月二八日に安芸国で義弘方が満弘方を破り、多数の死者が出たとの報告があり、遅れて一〇日の長門国下山城合戦について安芸国武田氏から注進状が提出された。これを受け、幕府は義弘方への支援を決めた。一〇月八日の書状の最後にみえる、椙原伯耆守を使者として派遣したので、三郎(満弘)に同心する国人達について、石州のみならず芸州についても注進せよとの命令が出たことを目出度いと、義弘が周布入道に伝えている。この時の合戦については九州探題今川了俊との関係で九州の国人も文書の中で言及している。
 義弘と満弘の対立は二度あり、最初が康暦二年、二度目が至徳二年に発生した。一度目は実質的には義弘と父弘世の対立であった。弘世は国人による庄園等の押領に寛容であった。別の表現をすれば庄園制に批判的であった。なぜ防長両国の所領が中央の公家や寺社のものとなり、年貢を納めなければならないかとの疑問である。幕府は半済令を出して国人と公家・寺社の利害を調整する立場であり、義弘は幕府の方針に従った。これに対して弘世と満弘はそれを批判し、義弘と対立した。この対立は弘世の死により和解が行われた。

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