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2018年9月26日 (水)

日野資憲の三人の男子

 当ブログは保元の乱後の日野資憲の動向を明らかにするため、その子達に注目し、対馬守となった親光について述べた。これに対して佐伯氏は石見国と対馬守の関係から、遙任が一般化する中で現地に下って支配に当たる国守に注目したが、そもそも石見守源国保が現地に下向して支配に当たっていたとの仮説が根拠に基づかない誤りであることを明らかにし、一方では松島氏の研究を参照しながら対馬守親光が下向したのは後白河院の意向を受けた一時期のみであることを確認した。
 以下では、資憲の三人の男子、基光・俊光・親光の動向について比較して確認したい。材料としては索引が整備されている『中右記』『兵範記』『玉葉』に依拠したい。『台記』も注目すべき史料であるが、索引は私家版が作成されているのみであり、時期的にも三人の情報はそれほど含まれていない可能性が高い(後日活字本で確認したい)。
 佐伯氏は親光について、『玉葉』の嘉応二年一〇月二九日から建久五年閏八月二八日条まで確認できるとするが、前者の日時を参照しても「親光」はみえず、兄とされる基光がみえるのみで、何らかの錯乱があるようである。『玉葉』には親光に対して基光と俊光の関係史料はそれぞれ二点しか確認できない(索引によると基光は1点であるが、前記の1点を加えた)。
 親光の初見史料は松島氏が指摘した嘉応元年一月五日に蔵人に補任されたものである(『兵範記』)。同年の史料には蔵人右衛門尉とみえている。『玉葉』が九条家を中心とする記録で、一二世紀後半が中心であるのに対して。『兵範記』は藤原忠通の家司平信範の記録で、対象が広く、扱う時代は一二世紀中頃が中心であり、『玉葉』よりやや早い時期の記録である。親光のみならず、基光の記事も多数確認できる。これに対して俊光については5点と少ない。これに対して『中右記』には三人の父資憲の記事のみ含まれている。
 『兵範記』仁安四年正月五日条には親光が院蔵人に補任されたことと、資憲の二男で基光の舎弟であると記している。基光の初見史料は仁安元年一〇月一〇日条で、蔵人に補任されたことが確認できるのは仁安三年三月二〇日条である。基光の方が兄である可能性は高い。これに対して俊光の初見は久寿二年一二月一日である(いずれも『兵範記』)。索引には久寿元年六月二四日条もあるが別人である。保元の乱前の久寿三年正月七日に後白河天皇の蔵人に補任されており(このため崇德方とはならなかったか)、三人の中で最も年長である可能性が高い。母は新院(崇德)女房阿波(資憲の叔父資光の娘。その母は待賢門院尾張)とされるが、残りの二人とは母が違うのかもしれない。仁安三年正月六日の除目で正五位下に叙せられている。
 以上、保元の乱後、資憲が出家し政治の表舞台からは姿を消したが、その子達は出世の可能性は失われつつも、摂関家との関係を軸に家を存続させ、叔父である日野氏惣領資長の養子となった基光の末裔から日野資基が登場することとなる。

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