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2018年9月24日 (月)

薗山庄領家吉田経房4

 為隆が出雲国内の庄園の領家となるきっかけとしては、子憲方を国守として出雲国知行国主であったことが考えられる。その時期か、その後間もない時期に薗山庄の寄進と立券が行われ、憲方ないしはその同母弟である父光房を経て経房が継承したと考えられる。為隆が知行国主であったのは保安二年(一一二〇)末から大治二年(一一二七)初までの七年間である。次いで、憲方は周防守に遷任するが、父為隆が周防権守であった。大治五年(一一三〇)九月には為隆が死亡しているが、周防守にとどまった憲方は重任の功として待賢門院の御願寺法金剛院東新造御所を造進し、保延元年一二月に周防守を辞任したが、翌年正月には近江守に補任されている。この間、大治三年には待賢門院の御願寺で六勝寺の一つである円勝寺が落成し、大治五年には法金剛院が待賢門院によって再興され、御願寺とされた。
 薗山庄の寄進と立券はこの大治年間に行われた可能性が高い。憲方の後任として大治三年一二月末から同五年一〇月末に出雲守に補任されたのは院近臣藤原基隆の子経頼であった。基隆には年齢順に庶子隆頼、嫡子忠隆、庶子経隆がおり、彼らを国守として基隆が知行国主を務めている。経隆は二期八年間周防守を務めた後に、憲方と相博する形で出雲守に補任された。院近臣である基隆と為隆の間でキャッチボールが行われた形である。大治五年一〇月に基隆が修理大夫を兼ね、次いで従三位と公卿となったことで、出雲国知行国主を交替し、経頼も出雲守から讃岐守に遷任した。基隆は二年後の天承二年三月に五八才で死亡しており、経隆の年齢もあり、讃岐国は知行国ではない。経頼の後任の出雲守は九才の藤原光隆で、同時に鳥羽院御給により従五位下に叙せられている。鳥羽院が出雲国の分国主であった可能性が高いが、この光隆は藤原清隆の嫡子光隆とは同姓同名であるが別人である。
 基隆は憲方の前任者である子隆頼が出雲守であった際も出雲国知行国主であった可能性が高い。基隆も待賢門院別当であり、その子経頼が出雲守であった時期に薗山庄の待賢門院への寄進と立券が行われた可能性が高い。待賢門院の死によりその所領は崇德院が管理したが、保元の乱により崇德が配流されたため、所領は待賢門院の娘上西門院領となったものと、別の有力者に寄進され直したものに分かれたと思われる。薗山庄は上西門院領をへて後白河院領となったと思われる。頼朝が薗山庄下司職をめぐり経房への推薦状を記したのはそのためであった。

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