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2018年9月 4日 (火)

中世前期の伯耆国武士団2

 船上山合戦の直後に後醍醐から感状を与えられ、但馬国内二ヶ所を恩賞として与えられた巨勢氏の文書は相見氏が所持しているが、両者の関係は不明である。相見氏が紀氏を称しているので、巨勢氏も紀氏であるとの論は理解不能である。相見氏と巨勢氏との間に姻戚関係があった可能性はある。相見氏は巨勢氏が得た所領を由緒の地として獲得しているが、単純に相見氏=巨勢氏とはならない。
 鎌倉中期の伯耆国の武士団を西からみると、紀氏は会見郡(東部)が本拠、日野氏は日野郡、汗入郡は長田氏、八橋郡は野津氏、久米郡は小鴨氏、河村郡は原田氏が本拠であろう。院政期の時点では汗入郡は会見郡とならぶ紀氏の本拠地であったが、鎌倉初期に所領を没収され、その跡に地頭として入部した東国御家人が長田氏を名乗ったと考えられる。その他は国御家人である。小鴨氏の系図によれば、小鴨基康は後白河院の宮を擁立した紀氏の勢力拡大に危機意識を抱いて、一の谷から帰国したとされるが、それは日野氏も同様であったと思われる。これが結果として鎌倉幕府のもとで小鴨氏と日野氏が生き延び、紀氏が勢力を削減された原因となったであろう。『吾妻鏡』建久元年六月二七日条には、去年の冬に院の召次を凌轢した罪で伯耆国住人「海大成国」が幕府に捕らえられ囚人として侍所別当和田義盛のもとに預けられている。院領の管理のため下向してきた使者に濫妨を働いたのだろう。紀氏でも三能氏のように会見郡を拠点とする一族は生き残り、後醍醐と伯耆守長年に協力した。ただし、反幕府方となったことでその勢力をさらに後退させた可能性が高い。
 伯耆守長年が苗字の地とした長田については、会見郡説と汗入郡説があるが、関係史料を総合的に判断すると、汗入郡長田にしかならない。籠城した船上山は汗入郡の西隣八橋郡にある。この郡を拠点とする野津氏の対応は不明であるが、後醍醐一行は野津氏の勢力圏に着いた後に(『古本伯耆巻』と『舟上記』では汗入郡片見とする)、西に戻って伯耆守に使いを送って船上山に籠城している。
 嘉暦2年3月25日には伯耆国久米郡立縫郷内津原村地頭金持新三郎廣顕と子息藤原松夜叉丸が願文を捧げている(紀伊熊野本宮文書)。応安元年一〇月には金持弾正による伯耆国汗入郡宇多河庄への濫妨停止を命じた後光厳天皇綸旨が出されている。一時期伯耆国守護であった金持氏の所領については史料があまりないが、伯耆国中部であろうか。金持神社は出雲国と境を接する日野郡にあり、日野氏の勢力圏である。

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