koewokiku(HPへ)

« ブログ開設10周年目前6 | トップページ | 薗山庄領家吉田経房2 »

2018年9月24日 (月)

薗山庄領家吉田経房1

 薗山庄についてはこれまで二度述べているが、もう少し詳細に検討した結果を以下に記す。
 吉田経房は藤原為隆の子光房を父として生まれるが、一三才であった久寿元年(一一五四)に父が死亡している。母方の二条家も公卿であった祖父俊忠は経房の生まれる一九年前に死亡し、その時点で一〇才であった俊成は藤原顕賴の養子となった(顕広)が、後に実家に戻っている。母の兄弟にも公卿に進んだものはいない。
 父の同母兄憲方が保安二年(一一二〇)末から大治二年(一一二七)初までの七年間出雲守となっているが、就任時一六才であり、憲方の父為隆が知行国主であったとされる。次いで為隆が周防権守に任じられたことにともない周防守に遷任し、次いで重任の功として待賢門院の御願寺法金剛院東新造御所を造進し(父為隆も待賢門院白河御堂を重任の功として造進)、保延元年(一一三五)末に藤原重家と交替して近江守に遷任し二期八年務めた。その後は鳥羽院の判官代並びに皇后宮大進(美福門院)としてもみえる。永暦元年四月三日には日野資長とともに二条天皇の蔵人頭に補任されたが、その一月後の五月四日に五五才で死亡している。
 同母弟である光房も受領歴任後、美福門院の子体仁親王の春宮大進、即位後の近衛天皇の蔵人、権右中弁兼中宮(藤原忠通の養女呈子)亮に進んだ。為隆以降摂関家との関係も深く光房も関白忠通の職事と北政所年預を務めていたが、久寿元年(一一五四)一一月に四七才で急死した。
 経房は久安六年(一一五〇)に九才で侍従となったが、翌年に兄信方が急死したため、これに替わって伊豆守を保元三年(一一五八)一一月末まで務めた。転機となったのは、後白河院の姉統子内親王が立后された保元三年二月に一七才で皇后宮権大進に補任されたことである。同日に皇后宮権少進に補任された一二才の源頼朝との関係はよく言われるが、もう一人、皇后宮大進に補任されたのが二二才の平親範であった。親範の祖父実親も待賢門院判官代であった経歴を有するが、それ以上に、母方の祖父藤原清隆の存在が大きかった。清隆は待賢門院別当になるなど、待賢門院との間に深い関係を有していた。親範は一二才であった久安四年(一一四八)正月に伯耆守に補任され、二期八年務めている。就任時に父範家は三五才であったが正五位下にすぎず、実質的に伯耆国支配を主導したのは清隆であったと思われる。清隆の嫡子光隆知行国主である父のもとで、久安二年末まで二期八年間出雲守を務めていた。

« ブログ開設10周年目前6 | トップページ | 薗山庄領家吉田経房2 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 薗山庄領家吉田経房1:

« ブログ開設10周年目前6 | トップページ | 薗山庄領家吉田経房2 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ