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2018年9月

2018年9月30日 (日)

頼朝の御外戚親光

 この問題について補足する。佐々木紀一氏「源義忠の暗殺と源義光」(『山形県立米沢女子短期大学紀要』四五号、二〇〇九年)をみていたら、頼朝の祖父為義の母が日野資憲の母方の祖母の姉妹であることが明らかであることを実感したのである。
 『台記』の人名索引は当分参照できそうもないので、史料纂集本『台記』一について関係する人物が登場するかチェックしてみた。精読したわけではないので、見落としはあろうが、そこには資憲の名前は確認できなかった。二と三もあるが、時間の制約とともに、一冊で疲れてしまい、後日に行うこととした。佐伯智広氏の論文の中で資憲に関するものとして引用されていたのは『兵範記』仁平二年(一一五二)三月一六日条であったが、今回『台記』で確認したのは久安四年(一一四八)までである。
 その中で、康治元年八月三日条に前左衛門尉為義は義家の子であるとの記述が目にとまった。当然、系図の記述よりこちらが正しい可能性が高い。また、佐々木紀一氏がその説を唱えていることを知り、冒頭の論文を確認した。氏の勤務先の紀要の論文がネット上に公開されているのは、大江氏について調べた際に確認していた。すると、頼長の父忠実の日記『殿暦』が引用され、天仁二年(一一〇九)二月一七日条にも「義家朝臣四郎男為義」とあり、義家の嫡子義忠暗殺に関して叔父義綱の追捕が命じられたことが記されていた(当然、『台記』にも言及あり)。事件の背景には暗殺の嫌疑をかけられた源重美とその兄弟重時兄弟(経基の子満政の子孫)と義家(満仲の子孫)一族の対立があるとした元木泰雄氏の説もある。関係系図を通して検討した佐々木氏は、『尊卑分脈』の記載は、為義の嫡流相続が不慮の事件の結果ではなく、本来嫡子である義親の子で、且つ当初より義家により源氏の正嫡として定められたとする権威付けが『尊卑』注記の作為の動機であらうとし、様々な風説が生まれる背景はあるが、真相は不明とせざると得ないとしている。
 話を戻すと、頼朝は自らの祖父為義の母の父有綱と親光の祖母の父(母方の有定、父方の有信)が兄弟であったため、親光を「御外戚」と呼んだのである。さらには親光の父資憲が頼朝が仕えた上西門院の兄崇德院の側近であったことから、これを大切に扱ったのである。頼朝への大功により出雲大社神主に補任された内蔵資忠、平家方となったが罪を許されたのみならず本領を安堵された因幡国住人長田実経(父高庭介資経が頼朝が伊豆に配流された際に一族の藤七資家を派遣。「藤七」から長田氏が藤原姓であったことがわかる)はいずれもその父等が日野資憲との緊密な関係を結んでいた。 

2018年9月29日 (土)

大治五年の出雲守光隆3

 石見国ではこれまた安芸国から遷任してきて一年足らずの藤原尹経から、出産時の法要に参加する中で待賢門院の信任を得た卜部兼仲に国守が交替している。尹経も院分国土佐で国守を務めるなど白河院との関係を有した人物であった。兼仲が二期八年務めた後任は、待賢門院別当の一人であった平忠盛の正室藤原宗子(池禅尼)の兄弟宗長であった。宗長は父宗兼と同様和泉守となったが、石見守兼仲と相博する形で石見守となり、二期八年務めた後に、天養元年一二月末に日野資憲が崇德院庁の別当に専念するため辞任した下野守の跡に遷任した。石見国、和泉国、下野国もまた出雲国、安芸国と同様一時期待賢門院の分国とされた。
 安芸国が光隆の死により忠実の知行国となったことは前述の通りである。出雲国は待賢門院別当であった藤原清隆が国主、その子光隆が国守となり、杵築大社遷宮を行い、次いでこれまた待賢門院別当であった院近臣藤原基隆の子経隆が国守となった。大社造営により待賢門院自身の収入の減少が減少するため、安芸国に遷任したのであろう。後に後白河院の側近藤原能盛が三年の任で周防守に遷任したのも同様の理由であろう。その後出雲守は久寿元年正月には源光保に交替した。光保は保元の乱後二条天皇派となった人物である。
 石見国は、知行国とした大和国で興福寺の反発を受けた藤原忠通が天養二年に遷任してきたが、一年足らずで父忠実に奪われ、久安二年には忠実の側近で安芸守であった源雅国の子で一〇代であったと思われる国保が石見守となった。知行国主忠実のもとで、雅国が実際の支配にあたったと思われる。雅国は安芸守は久安五年には同じ忠実の側近源成雅と交替している。
 和泉国は永治二年には藤原光盛が国守となり二期八年努めているが、光盛は日野資憲と資長の弟である。、久安三年三月の時点では和泉国が忠通の知行国となっていることが確認でき、光盛は忠通の側近であった。下野国では久安五年には藤原宗国が国守であるが、宗長との関係は不明である。
 以上、大治五年に出雲守に補任されたのは源光隆であり、出雲国が石見国に続いて待賢門院の分国とされたと考えて問題なかろう。

 

大治五年の出雲守光隆2

 家行は白河院政のもとで伯耆守(七年)・尾張守(八年)・丹後守を歴任した高階為遠の子である。為遠は備中守為家の子であるが、その妻の一人に源基綱の娘がいた。基綱は宇多源氏の大納言源経信の子で、堀河天皇の蔵人頭をへて権中納言に進み、永久五年(一一一八)一二月に大宰権帥としての赴任地で六八才で死亡している。為遠と基綱の娘の間には歌人としても知られる待賢門院尾張がいる。また源行宗の妻となった娘もいるが、行宗の養女が崇德院との間に重仁親王を産んだ兵衛佐局であり、基綱一族と待賢門院・崇德院との緊密な関係がうかがわれる。兵衛佐局は藤原季実の孫(法印信縁の子)であり、その兄弟が行宗の養子となって藤原光隆から源光隆になった可能性もある。季実の兄弟季仲(出雲守)の娘も源行宗の室となっていた。さらに為隆の妻となった娘もいるが、為隆はその父為房が待賢門院の母光子の兄で、待賢門院の従兄弟になる。
 光隆の名を系図の上では確認できないが、基綱の孫であり、且つ父が早世したため為遠の子家行が後見人を務めていたと思われる。当然、当時の出雲国は待賢門院の分国であった。大治三年末にそれまでの国主藤原為隆・国守憲方から国守藤原基隆・国守経隆に交替して二年足らずであるのに、交替したのはそのためである。大治五年の待賢門院は、律宗寺院法金剛院を再興して、六勝寺の一つ円勝寺(大治三年供養)とともに自らの御願寺とし、そのもとには全国から所領の寄進が相次いでいた。
 死期の近づいた白河院は孫の鳥羽院とは独立した経済基盤を待賢門院に伝えるための作業を開始していたが、その最中の大治四年に死亡した。待賢門院の院分国を設定したのもそのためである。
[補足] 「諸院宮御移徙部類記」(宮内庁書陵部所蔵)によると、康治二年七月に待賢門院の子統子内親王の三条烏丸邸の造進にあたった安芸守光隆について、出雲国司から安芸守に遷任したことが記されている。出雲国では後任の藤原清隆・光隆父子によって杵築大社造営事業が行われており、三条烏丸邸の造進と両立が困難であったため、安芸守となったことがわかる。また、当初光隆は出雲守の前任であった経隆の父で院近臣である藤原基隆の後家の猶子となったが、その後、高階家行の娘に嫁したため、猶子関係を解消して、養父で大舎人頭であった家行が造営の後見を行った。これにより、源光隆が出雲守であったことは証明された。光隆の生年は一一二二年ないし二四年で、基隆が死亡した時点では九才ないしは一一才である。元服して出雲守になった時点では基隆は健在である。

 

 

大治五年の出雲守光隆1

 『中右記』大治五年(一一三〇)一〇月二七日条によると、出雲守であった藤原経隆が讃岐守に選任し、新たに藤原光隆が出雲守に補任されている。光隆は同時に従五位下に叙されている。まだ九才であったが同日夜に元服し、院臨時御給として叙位された。院とは鳥羽院である。保安三年(一一二二)の生まれとなる。
 問題はこの光隆と藤原清隆の子光隆の関係である。後者は公卿補任によると、この三年後の長承二年(一一三三)一一月一九日に蔵人に補任され、一二月二六日に五位に叙爵し、翌三年閏一二月三〇日に八才で淡路守に補任されている。大治二年の生まれとなる。五才違いで同姓同名の藤原光隆がいた可能性は低く、『中右記』の記載には誤りがあると思われる。後者は大治五年の時点では四才であり、年齢を誤った可能性は低い。となると、姓が問題となるが、この時期に国守を務めている光隆にはもう一人「源光隆」がいる。
 康治二年七月に待賢門院娘統子内親王御所を修造した「安芸守源光隆」がみえる。光隆は在任中の久安元年七月二五日に二二才で死亡したとある(『本朝世紀』)。これだと保安五年の生まれとなる。藤原光隆は七才で叙爵しており、源光隆の生年は保安五年が正しいと思われる。これだと藤原光隆と同様に七才で元服し叙爵されたことになる。保延元年一一月二〇日の五節で舞姫を献じて播磨守とともに薫物一裏を送った出雲守光隆は源光隆である(『中右記』)
 安芸守源光隆について五味文彦氏は当時の安芸国が待賢門院の分国であった可能性を指摘しているが、正しいとすべきである。光隆の父は不明で、御所造営の際は待賢門院判官代大舎人頭高階家行が後見人であった(『諸院宮御移徒部類記』)が、待賢門院も久安元年八月二二日に死亡している。源光隆の後任の安芸守は藤原忠実の家司源雅国で、安芸国は忠実の知行国となったのである。
[補足]長承元年一一月二三日に五節雑事を献上した中に、越後清隆(綿三百両)と出雲光隆(筵三〇枚)がみえる([中右記])。これにより、出雲守が清隆の子光隆でないことが明確となる。

 

2018年9月27日 (木)

藤原光盛について

 久安三年(一一四七)三月二八日の時点で和泉国に藤原忠実七〇才賀の儀式の饗の負担が課せられていた。その時点の国守藤原光盛は日野実光の子で、資憲、資長の弟であった。『中右記』保延元年(一一三五)八月一日条に初めてみえ、仁平三年(一一五三)正月七日には中宮[権]大進を務めている労に対して、臨時給として正五位下に叙せられている。当時の年齢は三〇代半ばであろうか。一方で佐渡守の公文勘会が完了していない中での臨時給であったことが記されている。光盛が佐渡守に補任されたのは久安五年一二月三〇日であり、仁平二年六月二七日には後任の高階為清の佐渡守現任が確認できる。光盛は二年程度佐渡守に在任したことになる。同日には平忠盛と池禅尼の子で二一才である頼盛も正五位下に叙せられているが、これは一院=鳥羽院給によるものであった。また頼盛の異母兄教盛が従五位上に叙されているが、これは新院=崇德院給によるものであった。教盛は頼盛より五才年長であるが、母は待賢門院女房(藤原家隆の娘)であった。
 光盛に関して注目されるのは平盛兼との間に和泉守と佐渡守を相博した形になっている。光盛が和泉守に補任されたのは康治元年(一一四二)正月二三日で、卜部兼仲の後任として二期八年務めたと思われる。その際の知行国主は藤原忠通である。これに対して平盛兼は北面下臈で左衛門尉であり、元永二年九月の白河院の熊野参詣の御共人として平正盛・藤原盛重などとともにみえる。大治二年一〇月二九日、白河・鳥羽両院の高野詣に使大夫尉資遠とともに供奉。また大治四年一一月には興福寺衆徒の追捕のため、源為義とともに派遣されている。
 久安五年末に忠通の知行国である和泉国と佐渡国の国守が入れ替わったものであろう。盛兼は和泉守を重任し、保元元年九月一七日に忠通の側近藤原邦綱と交代している。光盛の後任の佐渡守高階為清は応保元年九月の除目では大殿=忠通からの申し入れにより主殿頭に補任されており(『山塊記』)、やはり忠通の関係者である。盛兼本人も天永二年一二月一六日に藤原忠実が春日社詣を行った際には神楽の舞人を務めている。久寿二年二月一日の法勝寺千僧御読経に鳥羽法皇・美福門院が行幸した際に、左大臣頼長が退出しようとして盛兼の子信兼に射られ、従者が負傷する事件が起こり、父盛兼が頼長に対して名簿を提出しているが、それも盛兼が忠通に従う存在であったからであろう。ただし、保元の乱では盛兼は後白河天皇方となった。
 以上、光盛について検討したが、和泉国に加えて佐渡国も当該時期には忠通の知行国であったと考えられる。佐渡守は保延三年(一一三七)一〇月六日に高階為重が補任され、久安元年(一一四五)一二月三〇日に某が重任し、同三年七月二四日に盛兼の在任が確認でき、重任した某とは盛兼であった可能性が高い。為重が一期四年務めた後に盛兼が永治元年末に補任され、その四年後に重任した可能性が高い。

待賢門院流

 待賢門院は藤原公実と藤原隆方の娘光子との間に生まれた。これまで待賢門院の兄弟である男子に注目してきた。三条氏(異母兄実行)、西園寺氏(同母兄通季)、徳大寺氏(同母兄実能)の祖となり、その一流は中世を通じて朝廷内で重要な位置を占め、庄園を所有してきた。これに対して待賢門院のライバルとなった美福門院の一族はそれほど勢力を温存できなかった。一方、待賢門院の母光子の一一才年上の兄が為房であり、その子為隆・顕隆・重隆・長隆・朝隆・親隆は待賢門院の従兄弟となり、為隆流からは吉田氏が、顕隆流からは葉室氏が出ており、こちらも待賢門院流と呼ぶことができる。
 待賢門院の死後、庄園と知行国は嫡子崇德上皇が管理したが、保元の乱で院が配流されたため、待賢門院分は娘の上西門院が継承し、崇德院分は後院領として後白河が継承したと思われる。中には領家の判断で本家を変えたケースもあったであろう。保元の乱で待賢門院流が消滅したわけではなく、関係者のつながりは維持された。幕府を開いた源頼朝も待賢門院流に属していたがため、待賢門院と崇德院の所領であった庄園に対しては配慮を示した。
 待賢門院流の人々には、白河院や鳥羽院の近臣であった関係者もいた。藤原基隆や平忠盛である。両者とも待賢門院の別当をつとめ、基隆の嫡子忠隆は顕隆の娘で崇德院乳母であった栄子を妻とし、両者の間に生まれたのが平治の乱の原因を作った信頼であった。基隆の子で出雲守となった隆頼は源師隆の娘を妻としていたが、師隆の妻は為房の娘であり、その娘には持明院通基との間に基家を生んだ女性や、待賢門院官女で上西門院乳母であった女性がいた。師隆の兄弟(俊房の子から師忠の養子となる)の娘には藤原頼長との間に兼長を生んだ女性や源雅国との間に石見守となった国保を生んだ女性がいた。
 平忠盛の正室宗子(池禅尼)の父宗兼の姉妹隆子は鳥羽院の近臣藤原家成の母であるが、崇德の乳母であった。そのためか、宗子は崇德の嫡子重仁の乳母となっていた。忠盛のみならず宗子も待賢門院流に属していたが。その兄弟宗長は和泉守から卜部兼仲と相博する形で保延四年(一一三八)年に石見守に遷任し、天養元年(一一四四)末には崇德院の側近日野資憲が崇德院庁の別当に専念するために辞任した下野守に遷任している。その時点の石見・和泉・下野国は待賢門院から継承した崇德院の分国であった可能性が高い。
 上記の関係者は鳥羽院の寵愛を受けるようになった美福門院との間にも関係を持っているが、鳥羽院の近臣という立場にもあり、不自然なことではない。何度も述べたが、崇德院と鳥羽院・美福門院との関係が悪化するのは近衛天皇が死亡し、後白河が天皇に即位してからである。皇室領は美福門院の子八条院に継承された八条院領と後白河が自らが長講堂や蓮華王院、最勝光院に集積した所領に待賢門院・上西門院と継承された所領を併せて形成された庄園に分かれた。 

2018年9月26日 (水)

日野資憲の三人の男子

 当ブログは保元の乱後の日野資憲の動向を明らかにするため、その子達に注目し、対馬守となった親光について述べた。これに対して佐伯氏は石見国と対馬守の関係から、遙任が一般化する中で現地に下って支配に当たる国守に注目したが、そもそも石見守源国保が現地に下向して支配に当たっていたとの仮説が根拠に基づかない誤りであることを明らかにし、一方では松島氏の研究を参照しながら対馬守親光が下向したのは後白河院の意向を受けた一時期のみであることを確認した。
 以下では、資憲の三人の男子、基光・俊光・親光の動向について比較して確認したい。材料としては索引が整備されている『中右記』『兵範記』『玉葉』に依拠したい。『台記』も注目すべき史料であるが、索引は私家版が作成されているのみであり、時期的にも三人の情報はそれほど含まれていない可能性が高い(後日活字本で確認したい)。
 佐伯氏は親光について、『玉葉』の嘉応二年一〇月二九日から建久五年閏八月二八日条まで確認できるとするが、前者の日時を参照しても「親光」はみえず、兄とされる基光がみえるのみで、何らかの錯乱があるようである。『玉葉』には親光に対して基光と俊光の関係史料はそれぞれ二点しか確認できない(索引によると基光は1点であるが、前記の1点を加えた)。
 親光の初見史料は松島氏が指摘した嘉応元年一月五日に蔵人に補任されたものである(『兵範記』)。同年の史料には蔵人右衛門尉とみえている。『玉葉』が九条家を中心とする記録で、一二世紀後半が中心であるのに対して。『兵範記』は藤原忠通の家司平信範の記録で、対象が広く、扱う時代は一二世紀中頃が中心であり、『玉葉』よりやや早い時期の記録である。親光のみならず、基光の記事も多数確認できる。これに対して俊光については5点と少ない。これに対して『中右記』には三人の父資憲の記事のみ含まれている。
 『兵範記』仁安四年正月五日条には親光が院蔵人に補任されたことと、資憲の二男で基光の舎弟であると記している。基光の初見史料は仁安元年一〇月一〇日条で、蔵人に補任されたことが確認できるのは仁安三年三月二〇日条である。基光の方が兄である可能性は高い。これに対して俊光の初見は久寿二年一二月一日である(いずれも『兵範記』)。索引には久寿元年六月二四日条もあるが別人である。保元の乱前の久寿三年正月七日に後白河天皇の蔵人に補任されており(このため崇德方とはならなかったか)、三人の中で最も年長である可能性が高い。母は新院(崇德)女房阿波(資憲の叔父資光の娘。その母は待賢門院尾張)とされるが、残りの二人とは母が違うのかもしれない。仁安三年正月六日の除目で正五位下に叙せられている。
 以上、保元の乱後、資憲が出家し政治の表舞台からは姿を消したが、その子達は出世の可能性は失われつつも、摂関家との関係を軸に家を存続させ、叔父である日野氏惣領資長の養子となった基光の末裔から日野資基が登場することとなる。

久安三年の摂関家

 久安三年(一一四七(三月二八日に藤原忠実の七〇才賀が行われた。すでに子の忠通には嫡子基実が生まれ、忠実・頼長との間に亀裂が生じ始めていた中での祝いの会であった。その中で饗宴の費用を負担したのは①近江国(上達部三〇前・殿上人一〇前・穏座衝重二〇前)、②安芸国(女院殿上二〇前)、③伊賀国(女院衝重二〇前)、④備後国(諸大夫三〇前)、⑤和泉国(楽人・舞人二〇前)、⑥淡路国(楽人・舞人二〇前)、⑦石見国(入道殿御共人前駈二〇前)であった。
 最も負担の大きい①近江国は大国で忠実自身の知行国(国守源憲俊)であった。②の安芸国も上国で忠実の知行国(国守源雅国)であり、雅国の子国保が国守である⑦石見国は中国であるが、負担内容からみても忠実の知行国であったことは明白であろう。この忠実知行国三ヵ国に対して、③(下国、国守藤原信経)、④(上国、国守源信時)は忠通の知行国である。⑤(下国)の国守藤原光盛は、佐渡守に遷任後、中宮権大進となり、久寿二年一〇月二三日には忠通の北政所の法事の奉行を行い、且つ保元の乱後も生き残り、忠通の家司としてみえるので、この時点でも和泉国が忠通知行国であった可能性が高い(光盛は日野資憲と資長の兄弟光盛か)。            
 これで忠通の知行国も三ヵ国となったが、残る⑥淡路国(下国)は藤原朝隆が知行国主で、嫡子朝方が国守であった。朝隆は摂関家家司であったが、院近臣としてもみえ、摂関家からの独立性は高かったのではないか。その他の摂関家家政機関の職員(小舎人所・政所・御厩・御車副・政所法師)の屯食は摂関家領(殿下御領)が負担している。
 石見国守(源国保)と対馬国守(忠通の側近源季兼)が相博していることから、石見国も忠通の知行国ではないかと思う人があるかもしてないが、以上のことからも源国保が石見守であった時点の知行国主が忠実であったことは明らかであろう。

2018年9月24日 (月)

薗山庄領家吉田経房4

 為隆が出雲国内の庄園の領家となるきっかけとしては、子憲方を国守として出雲国知行国主であったことが考えられる。その時期か、その後間もない時期に薗山庄の寄進と立券が行われ、憲方ないしはその同母弟である父光房を経て経房が継承したと考えられる。為隆が知行国主であったのは保安二年(一一二〇)末から大治二年(一一二七)初までの七年間である。次いで、憲方は周防守に遷任するが、父為隆が周防権守であった。大治五年(一一三〇)九月には為隆が死亡しているが、周防守にとどまった憲方は重任の功として待賢門院の御願寺法金剛院東新造御所を造進し、保延元年一二月に周防守を辞任したが、翌年正月には近江守に補任されている。この間、大治三年には待賢門院の御願寺で六勝寺の一つである円勝寺が落成し、大治五年には法金剛院が待賢門院によって再興され、御願寺とされた。
 薗山庄の寄進と立券はこの大治年間に行われた可能性が高い。憲方の後任として大治三年一二月末から同五年一〇月末に出雲守に補任されたのは院近臣藤原基隆の子経頼であった。基隆には年齢順に庶子隆頼、嫡子忠隆、庶子経隆がおり、彼らを国守として基隆が知行国主を務めている。経隆は二期八年間周防守を務めた後に、憲方と相博する形で出雲守に補任された。院近臣である基隆と為隆の間でキャッチボールが行われた形である。大治五年一〇月に基隆が修理大夫を兼ね、次いで従三位と公卿となったことで、出雲国知行国主を交替し、経頼も出雲守から讃岐守に遷任した。基隆は二年後の天承二年三月に五八才で死亡しており、経隆の年齢もあり、讃岐国は知行国ではない。経頼の後任の出雲守は九才の藤原光隆で、同時に鳥羽院御給により従五位下に叙せられている。鳥羽院が出雲国の分国主であった可能性が高いが、この光隆は藤原清隆の嫡子光隆とは同姓同名であるが別人である。
 基隆は憲方の前任者である子隆頼が出雲守であった際も出雲国知行国主であった可能性が高い。基隆も待賢門院別当であり、その子経頼が出雲守であった時期に薗山庄の待賢門院への寄進と立券が行われた可能性が高い。待賢門院の死によりその所領は崇德院が管理したが、保元の乱により崇德が配流されたため、所領は待賢門院の娘上西門院領となったものと、別の有力者に寄進され直したものに分かれたと思われる。薗山庄は上西門院領をへて後白河院領となったと思われる。頼朝が薗山庄下司職をめぐり経房への推薦状を記したのはそのためであった。

薗山庄領家吉田経房3

 その背景として、上西門院のもとで皇后宮権大進と皇后宮権少進を務めた関係や、経房とその兄や子が頼朝が配流されていた伊豆国の国司であったことが指摘されているが、その前提として、両者、あるいはその家が両方とも待賢門院関係者と密接な関係があったことがあげられる。父光房の同母兄憲方が待賢門院の御願寺法金剛院東新造御所を造進したこともある。経房自身が当初は妻の実家である平範家の支援により出世していくが、範家の背後には妻の父藤原清隆がいた。もう一人の妻藤原顕憲の娘は忠実の子頼長の従姉妹になる。その関係で兄弟である盛憲と経憲は頼長の側近となり、盛憲は崇德院の殿上人であった。両者は保元の乱では崇德・頼長方として敗北し、それぞれ佐渡国と隠岐国に配流されている。ただし。、盛憲の子清房は祖父顕憲跡の継承を認められ、その子重房が九条頼経の鎌倉への下向に同行して御家人となり、上杉氏の実質的祖となる。 寿永元年七月には経房の家臣である前馬允以親以下が出雲国薗山庄に派遣されたことが経房の日記にみえ、経房が薗山庄領家であったことがわかる。次いで文治二年七月には薗山庄前司師兼が頼朝に対して、下司職への還補について経房への働きかけを依頼し、頼朝が経房宛の書状を出したことが記されている。師兼は頼朝の母由良御前の弟祐範の子仁憲に仕えており、その縁から頼朝に働きかけたと思われる。
 正治二年二月二八日藤原経房処分状には薗山庄がみえないが、前欠部分に記されていたと思われる。本来は嫡子為経に譲られるはずであったが、その前年に無断で出家してしまい、当座は為経の母=経房の妻に譲り、一期の後に嫡孫資経に譲られることになったのであろう。
 経房領には五辻斎院(頌子内親王)を本家とする所領、経房が仕えていた建春門院の御願寺最勝光院に寄進した所領、待賢門院の娘上西門院の所領、嫡子為経の妻の父平親範(経房の妻の兄弟)の所領、家司を務めた摂関家領等があるが、最も時期的に早いのは、三代相伝領とされるものである。その中の一つ伊勢国和田庄は九条家の庄園であった。一方、美濃国平田庄内市俣郷は、寄進の私領ではないが、三代知行し、正治二年の時点では宣陽門院領であった。宣陽門院は後白河院の娘覲子内親王で、父後白河院領(長講堂領、上西門院領)を譲られたものであった。三代知行なので上西門院領で、和田庄とともに経房の祖父為隆の時期に知行(領家の立場)を認められたものであろう。薗山庄も同様であろう。

薗山庄領家吉田経房2

 経房は保元三年には親範の姉妹の一人との間に嫡子定経が生まれているので、結婚によって皇后宮権大進の地位を得たと思われる。また、同年には親範の嫡子基親が出雲守に補任されている。今回は前年に親範が非参議公卿(従三位)に進んでおり、知行国主は親範であった。経房の所領として出雲国薗山庄があるが、この時期に寄進されたものではないか。上西門院領であったかどうかは微妙である。
 次いで、翌四年二月に院号宣下により皇太后が上西門院となると、経房は権大進を辞任して上西門院判官代となった。一方、閏五月末には平基親が出雲守から伯耆守に遷任している。近江国知行国主であった藤原朝隆が死亡したため、知行国主が交替し、近江守であった朝隆の子朝雅は、新たに出雲国知行国主となった叔父親隆のもとで出雲守に遷任した形となった。その際に名前も朝雅から朝親に変更している。
 経房は安房守を五年余り務めた後に、永万二年には昇殿を認められ、二条天皇の子六条天皇の蔵人となったが、仁安三年二月に六条が退位し後白河院の子高倉天皇が即位するとその蔵人となり、天皇の母平滋子が立后されると皇太后宮大進になり、次いで嘉応元年四月に滋子に院号宣下が行われると建春門院判官代となった。承安三年には建春門院の御願寺最勝光院供養の功により従四位上に叙され、治承三年一〇月には高倉天皇の蔵人頭に補された。
 その直後の一一月に平家のクーデターにより後白河院が幽閉され、高倉天皇の親政が開始されると、後院別当に補任され、次いで安徳天皇が即位するとその蔵人頭に補任された。治承五年には参議に補任されて公卿に列し、寿永二年正月には従三位に叙せられた。このように清盛ら平氏本流に直接登用されたわけではないが、後白河院と平氏の中で順調に出世を遂げてきた経房であったが、寿永二年一〇月に東国支配権を院から認められた頼朝との密接な関係が注目された。

薗山庄領家吉田経房1

 薗山庄についてはこれまで二度述べているが、もう少し詳細に検討した結果を以下に記す。
 吉田経房は藤原為隆の子光房を父として生まれるが、一三才であった久寿元年(一一五四)に父が死亡している。母方の二条家も公卿であった祖父俊忠は経房の生まれる一九年前に死亡し、その時点で一〇才であった俊成は藤原顕賴の養子となった(顕広)が、後に実家に戻っている。母の兄弟にも公卿に進んだものはいない。
 父の同母兄憲方が保安二年(一一二〇)末から大治二年(一一二七)初までの七年間出雲守となっているが、就任時一六才であり、憲方の父為隆が知行国主であったとされる。次いで為隆が周防権守に任じられたことにともない周防守に遷任し、次いで重任の功として待賢門院の御願寺法金剛院東新造御所を造進し(父為隆も待賢門院白河御堂を重任の功として造進)、保延元年(一一三五)末に藤原重家と交替して近江守に遷任し二期八年務めた。その後は鳥羽院の判官代並びに皇后宮大進(美福門院)としてもみえる。永暦元年四月三日には日野資長とともに二条天皇の蔵人頭に補任されたが、その一月後の五月四日に五五才で死亡している。
 同母弟である光房も受領歴任後、美福門院の子体仁親王の春宮大進、即位後の近衛天皇の蔵人、権右中弁兼中宮(藤原忠通の養女呈子)亮に進んだ。為隆以降摂関家との関係も深く光房も関白忠通の職事と北政所年預を務めていたが、久寿元年(一一五四)一一月に四七才で急死した。
 経房は久安六年(一一五〇)に九才で侍従となったが、翌年に兄信方が急死したため、これに替わって伊豆守を保元三年(一一五八)一一月末まで務めた。転機となったのは、後白河院の姉統子内親王が立后された保元三年二月に一七才で皇后宮権大進に補任されたことである。同日に皇后宮権少進に補任された一二才の源頼朝との関係はよく言われるが、もう一人、皇后宮大進に補任されたのが二二才の平親範であった。親範の祖父実親も待賢門院判官代であった経歴を有するが、それ以上に、母方の祖父藤原清隆の存在が大きかった。清隆は待賢門院別当になるなど、待賢門院との間に深い関係を有していた。親範は一二才であった久安四年(一一四八)正月に伯耆守に補任され、二期八年務めている。就任時に父範家は三五才であったが正五位下にすぎず、実質的に伯耆国支配を主導したのは清隆であったと思われる。清隆の嫡子光隆知行国主である父のもとで、久安二年末まで二期八年間出雲守を務めていた。

2018年9月19日 (水)

ブログ開設10周年目前6

  終わったはずであったが、中司氏と川岡氏の論文は扱った対象が共通する部分が多いにもかかわらず、論じ方はまったく異なっており、読者は戸惑うのではないか。二人の間で、徹底した議論が行われた上で、それぞれの観点から論文が作成されたのならかまわないが、そのようには感じられない。自分で史料を精読したのは一五世紀初頭までなので、個々の論点を論評をする準備はないが、一つだけ共通して気になった点について述べたい。
 それは中世後期の石見国政治史を論ずる上で重要な大内氏による邇摩郡分郡支配である。両者ともそれがいつ始まったのかについて明記していない。検討結果の提示は必要不可欠である。川岡氏は大内氏と石見国衆の歴史的つながりを大内氏が幕府と国衆を仲介する前提とし、応永の乱で石見国守護職を手放したとはいえ、石見国の隣国である周防・長門国守護であり、石見国内にも分郡を有する存在であったと記すのみで、分郡守護の説明は具体性に欠けている。中司氏は応永の乱で大内義弘が滅ぼされたが、周防・長門で幕府方に盛見が屈しなかったことを述べた上で、石見国でも大内氏は邇摩郡を勢力圏として保持し続けるなど、依然として大きな影響力を持ち続けたと述べており、仮にセンター試験で中司氏が大内氏が邇摩郡を勢力圏として保持しはじめた時期として考えているのはいつかとの出題があれば、「応永の乱以前から」が正解となるであろう。
 この問題については、以前、大内盛見が防長守護職を認められた際に、邇摩郡分郡守護権を認められたという井上寛司氏の説を検討し、分郡支配を認められたのは応永末年であり、それは石見国における様々な国人間の問題解決(吉見氏、桜井氏、佐波氏等)に大内氏が貢献したことに対する恩賞であったとの分析結果を示した。吉見氏庶子木部氏と吉見氏惣領の対立と桜井氏による桜井庄押領については述べられるが、桜井氏による都治氏領の乗っ取りや佐波氏庶子千束氏が高橋氏と結んで惣領家を乗っ取ろうとした問題については触れられていない。
 「貞治~応永年間の芸石政治史」の中でも、分郡支配を最初に認められたのは応永七年の山名時久で、邇摩郡を除く石見国守護が山名氏利であったことを明らかにした。応永の乱以前には大内氏が邇摩郡内に所領を有することはあったが、分郡守護ではなかった。
 その時に痛感したのは、このテーマに関する松岡久人氏と岸田裕之氏の古典的研究の再検討である。中国地方の中世史と言えば、この二人と河合正治氏がパイオニアである。今と比べたら史料収集は数十倍大変な中での三氏の著作物は大変な労作ではあるが、現在の状況を踏まえて、批判的に発展させないと何も生まれない。三氏の業績(河合氏については中世前期の毛利氏研究は根本的見直しが必要である)を無条件の前提として論文を書くことなど、研究に必要不可欠なものを欠いた作業にしかならない。言わば「昔の名前で出ています」の世界である。雑誌『史学研究』に掲載されている論文にはそのようなものが散見され、これまた声を失ってしまう。
 愚痴ばかり述べてもしょうがないので、とりあえず論文を岸田氏に送付することとしたい。昨年六月には第二陣として送るつもりで、『大名領国の構成的展開』に記された自宅でよいことを島大長谷川氏に確認したところで、足を痛めてしまい、その治療に追われる中、島根県教育委員会の面々にも送る機会を逃してしまった。こちらにも送付したい。併せてそちらから住所を確認して「応永の安芸国人一揆の再検討」の著者飯分徹氏にも送りたい。ちなみに個人以外では、広島大学の日本史研究室並びに益田市・浜田市・江津市、その外には第一陣として送付した。その時点では広大退官後龍谷大に勤務されていた岸田氏への送付先が不明であったので、送っていなかった。

ブログ開設10周年目前5

 満弘は石見国守護となり、益田兼見の娘と結婚して子ども(満世)も生まれた。そうした中、至徳二年に義弘が、石見国守護を交代させ、新介を派遣した。石見国と安芸国ではそれぞれ南北朝期以来の対立があり、それが再発しかねない状況となったため、義弘が先手を打って、満弘の身を確保しようとして、益田氏に引き渡しを求めた。これを益田氏が拒否したため、大内氏による益田氏攻撃の可能性が大きくなった。安芸国でも国人による押領が続いており、公家・寺社側の要請を受けて押領を停止しようとする幕府と国人の間の矛盾が大きくなっていた。実際に幕府派と反幕府派の国人の間で至徳二年七月に大規模な衝突が発生しており、幕府と義弘からすると反幕府派と満弘が結びつくことは絶対阻止しなければならなかった。
 これに対して、益田兼見(祥兼)は婿である満弘をやすやすと引き渡すことはできなかった。また、福屋氏など康暦二年に満弘を支持した国人の多くは足利直冬時代に反幕府方として所領を拡大しており、幕府と義弘が繰り返し要求した本主への所領返還に抵抗していた。もっともわかりやすいのが高橋氏であり、幕府方の出羽氏の苗字の地出羽郷の大半は16世紀前半に高橋氏が滅亡するまで高橋氏が支配していた。
 文書の年次比定に戻ると、満弘がまだ「三郎」と呼ばれている。満弘は名前のみか姓(多々良)のみ記すことが多く、その時期は確定できないが、和解して益田兼見の娘と結婚したことで、至徳二年に対立が再燃した時点では官職(後には伊予守に補任されていた)を得ていた可能性が大である。また、至徳二年には義弘は周布入道の息子弾正少弼兼仲とも連絡をとっているが、この文書には兼仲についてはまったく言及されていない。以上の理由から、文書は康暦二年のものであると100%断言できる。至徳二年の時点では、防長両国は義弘の支配が確立しており、石見・安芸国と違い、書状に記されている下山城合戦が起こる状況になく、実際に史料も残ってはいない。
 ということで目次氏と中司氏の論考のごく一部について、再検討を期待するとともに、論文が発表されっぱなしではなく、どんどん検討・議論され、研究が深化することを期待してこの文を終えたい。

ブログ開設10周年目前4

 月日が違うというのは、大内義弘と大内満弘の対立が最初に表面化したのが康暦二年五月一〇日の長門国下山(栄山)城であることとの間の違いである。ただし、五月一〇日は満弘方が義弘方の下山城を攻撃し、不意をつかれた義弘方の二七人が討死したものである。これに対して一〇月五日の合戦は義弘方が満弘方に奪われていた下山城を奪還した際のもので、月日が違うのは当然である。満弘方の三〇余人が切腹し、残る三〇余人の降参したので、義弘方は阿武郡に打入ることとなった。
 義弘と満弘の合戦については、康暦二年五月二八日に安芸国で義弘方が満弘方を破り、多数の死者が出たとの報告があり、遅れて一〇日の長門国下山城合戦について安芸国武田氏から注進状が提出された。これを受け、幕府は義弘方への支援を決めた。一〇月八日の書状の最後にみえる、椙原伯耆守を使者として派遣したので、三郎(満弘)に同心する国人達について、石州のみならず芸州についても注進せよとの命令が出たことを目出度いと、義弘が周布入道に伝えている。この時の合戦については九州探題今川了俊との関係で九州の国人も文書の中で言及している。
 義弘と満弘の対立は二度あり、最初が康暦二年、二度目が至徳二年に発生した。一度目は実質的には義弘と父弘世の対立であった。弘世は国人による庄園等の押領に寛容であった。別の表現をすれば庄園制に批判的であった。なぜ防長両国の所領が中央の公家や寺社のものとなり、年貢を納めなければならないかとの疑問である。幕府は半済令を出して国人と公家・寺社の利害を調整する立場であり、義弘は幕府の方針に従った。これに対して弘世と満弘はそれを批判し、義弘と対立した。この対立は弘世の死により和解が行われた。

ブログ開設10周年目前3

 次に、昨年四月に公開した「貞治~応永年間の芸石政治史」の中で言及した文書についてである。論文では無年号文書の年次比定をかなり修正したが、当然、通説のままでよいとした文書もあった。その一つが一〇月八日大内義弘書状(周布入道宛)である。一昨年三月に刊行された『中世益田・益田氏関係史料集』では当方は系図を担当していたが、最終段階で関係文書の年次比定の修正(多くは康暦年間から至徳年間に)をしてもらった。その後、刊行された史料集をみたところ、変更の必要はないと考えたものまで「至徳二年ヵ」とされており、もう少し詳しく連絡しておけばよかったと後悔した。
 その後、一昨年一一月の島根県中世史研究会で「貞治~応永年間の芸石政治史」を報告した際には、逆に史料集の担当者である中司健一氏から至徳年間のものではないかとの質問を受けた。中司氏は大内義弘軍が長門国阿武郡へ打ち入ったのに続いて、「益田辺」へ打ち入るとあることから、これは大内氏が益田氏を攻撃することを意味しているので、至徳年間に変更されたようであった。たしかにその部分のみを切り取れば、そのような解釈がなされることはそれほど不自然なことではない。ただし、書かれた全体の内容を総合的に見る限り、これは康暦二年のもので、大内義弘軍は長門国から対立する満弘の支持者がいる石見国に攻め入ったことが記されており、益田氏の立場はこの史料からは不明であると解釈し、その旨を答えた記憶がある。
 今回、中司氏の論文に当該文書を「至徳二年ヵ」とした別の理由が記されていたので、検討してみる。そこでは、①長州さかりやまの合戦の月日が異なること、②益田氏が義弘と対立していることなどから考えて、康暦二年とは別の年次と考えてよいとし、引用した史料の「十月八日」の部分に「(至徳二年ヵ)」との注記がなされている。②については論者が初めて明らかにし、論証した点なので問題はないが、①はどうであろうか。

ブログ開設10周年目前2

 ブログでは論集『石見の中世領主の盛衰と東アジア海域世界』に収録された二つの論文に対して多くの疑問を提示したが、他の論文も例外ではない。ただ、現時点では十分分析していないので、以下では気になる二つの点だけ指摘する。
 論集では目次謙一氏が周布氏について論じているが、その最初の部分を呼んで声を失ってしまった。最近、ブログの読者から以下のコメントをいただいた。研究者であるか否かを含めどのような方かは不明であるが、土屋氏や名和氏の系図について教示いただいた。「来原氏について、先学の書々も周布氏庶流の国御家人としていたので、実際は東国御家人とは、思いもよらず驚きともに新知見を得られて勉強になりました。」。情報の提供を求められたので、HPに来原(田村)氏と越生氏の系図のPDF版をアップした(「質問に関連して」のコーナー)。
 論者が周布氏について知ったのは一九八三年に県立浜田高校に赴任したことがきっかけである。当時、歴史部の顧問が部員と周布氏の鳶ノ巣城の研究に取り組んでいるのに参加させていただき、周布氏の所領について整理してみた。そこで、周布氏の一族とされている田村氏がその一族ではなく、本来は独立した国御家人であるとの理解に到達した。史料をみれば誰ですぐに分かるレベルの問題であるが、萩閥の編者も他の研究者も巻末の系図の記載を鵜呑みにしていたのである。国御家人であるとしたのは、南北朝期には所領名に由来する来原氏を名乗っていたからである。ということで論者の理解では田村氏が周布氏の一族であるとの説は一九八三年に崩壊していたはずであった。
 次いで「益田氏系図の研究」に取組む中で確認した萩博物館所蔵の周布氏系図に姻族の系図として収録されていたのが、来原氏と越生氏の系図であった。来原氏は南北朝期に周布氏庶子を婿養子を迎えた。ところがまもなく、周布氏を相続する嫡子が死亡したため、庶子が呼び戻されて周布氏を継承したのである。これにより来原氏領が周布氏領に吸収された形となった。そして驚いたことには、田村氏初代資盛は東国御家人で、鎌倉初期に来原郷を得ていたことがわかった。次いで資盛の子が武蔵国御家人越生氏の養子に入り有政と名乗り武蔵国岡崎村を譲られたが、その後、承久の乱の恩賞で宇津郷を得た。一族は岡崎氏と宇津氏に分かれたが、岡崎氏の一族光氏が狩野氏と所領を交換して、石見国加志岐別符を得、その姉妹が周布兼宗との間に周布兼氏を産んだ。

ブログ開設10周年目前1

 二〇〇八年一〇月一八日がブログ「資料の声を聴く」を立ち上げた日で、あと一月足らずで一〇年になる。今の心境は、現在の日本の状況と一緒で絶望的ではないが絶望に近い。落ちるところまで落ちてその後どうなるかである。ブログがふつうなら種切れとなるところが、今でも続いているのは、デジタル化により、東京などに住んでいなくても、ある程度の情報が得られるようになったことが一つ。もう一つは最近発表される論文の中に実証性に欠ける(研究の精度が低い)ものが多いことである。論文でよく石井進氏が、論文はたくさん発表されるが、本当の意味で論文と呼べるものは少ないと言われていたことを引用するので、実際には昔もそうであったのかもしれない。当方が関心のある論文しかみていないので、実際は違うと思いたいが、これから日本中世史研究の主たる担い手にならねばならない研究者の論文(東日本、西日本を問わず)も例外ではない。
 当然、誰でも間違いはあり、それを他の研究者が指摘しつつ、研究の精度が上がっていけば問題はないが、どうもそうはなっていない。以前と異なり都道府県史や市町村史編纂のピークも越えて、専門的に学んでもなかなか職につけない現状では、研究者の層は薄くなっている。そうした中で職を得た研究者は大変有能なはずだが、そうなってはいない。例えば、院政期を専門とするのに、知行国・院分国の具体的事例の分析では、五味文彦氏『院政期社会の研究』から一歩も出ておらず、独自に分析した御願寺領の寄進者の比定では、ありえないような誤りを犯している例を述べたことがある。一ノ谷合戦に石見国から参加した武士として『源平盛衰記』に登場するのは安主大夫と横川郡司であり、後者についてはこれまで比定した人はいない。前者については、系図に、当時の益田氏惣領の官職として記されているものと一致するが、ある西日本の研究者は「あ」という音の一致のみを根拠に邑智郡の阿須那と関係があるのではないかとし、ある東日本の研究者は両者の官職が一致する原因は不明であると述べるのみである。

2018年9月18日 (火)

石見守源国保2

 ここで、佐伯氏が親光を考察するきっかけとなった石見守源国保の対馬守遷任について確認すると、親光と同様、国保に対する情報収集が不十分な中で結論が述べられており、事実の解明にはほど遠いものだといわざるをえない。
 国保の前任者である源清忠は忠通の知行国大和でその政策が興福寺の反発を受け、一年で石見守に遷任となったが、石見守も一年で交代している。佐伯氏は、国保もまた知行国主藤原忠通のもとでの石見守と考えたが、すでに述べたように、忠通と対立する父忠実が石見国知行国主の座を忠通から奪い取り、自らの側近源雅国の子国保を国守に補任したものである。これが、益田庄や大家庄と異なり、長野庄が皇嘉門院領とならなかった原因の一つである。
 五味文彦氏『院政期社会の研究』を参照すれば、忠通知行国の国守と忠実知行国の国守が重なることがなく、全く異なる人物であることがわかり、且、忠実のもとで安芸守を務めた源雅国の存在と、その雅国が保元の乱の直後に籠居の身となっていたことがわかる。雅国もその一方ではその才能ゆえに、院の家臣とともに活動していたが、乱により一時的には籠居した。その後は、資憲のように出家することなく、院や摂関家の行事に参加しているが、彼がその実績によりその地位を上昇させる可能性は失われた。保元二年正月には「皇嘉門院殿上人修理権大夫雅国朝臣」とみえる。対馬国国保についても、任期四年を務めた可能性はあるが、国保と入れ替わって石見守となった源季兼の場合も、三年を少し過ぎた時点で交替しており、国保も同時期に退任した可能性がある。はっきりしているのは、その後確認できるのは嘉応元年(一一六九)四月一六日に従五位上となったところまでであり、これから活躍する年齢でありながら、国司を含めた他の官職に補任された記録は残っていない。
 少なくとも、国保の母方の祖父源師俊の生年を勘案すると、国保は大治年間(一二二六~一二三一)以降の誕生で、石見守となった久安二年の時点では一〇代半ば未満であろう。国保と同様、師俊の娘を母とする藤原頼長の子兼長は保延四年(一一三八)の生まれで、久安二年には九才でしかない。
 実際の国務は天養二年から久安五年(一一四五~一一四九)にかけて安芸守であった雅国とその関係者が担っていたと思われる。石見守から対馬守への遷任は、忠通側の巻き返しによるもので、争奪戦に敗れた忠実・頼長側はなんとか対馬国を確保したというものであろう。このころの頼長は周囲とのトラブルで孤立しつつあった。
 中央での忠通家司としての活動が確認できる源季兼に対して、国保の関係史料が確認できないことから、佐伯氏は国保が忠通の家司ではない可能性に言及しつつも、結果としては、石見国や対馬国に下向して国務にあたっていたためだとしている。これが全く根拠のない推論であることは明らかであろう。一定期間対馬国に滞在した親光の場合は、内乱によって畿内と近国が混乱状況となる中、影響がそれほど及んでいない対馬国で、税や物資の確保を狙った後白河院の意向をうけてのものであった。すべては、藤原親光・源国保に関する情報収集が行われなかったり、史料の解釈が不十分であったために起こったものであった。対馬が対高麗との関係で独自の位置を占め、ある意味では魅力的ではあるが、小国でもあり、この対馬守を希望するのは国守未経験の人が大半であった。豊後国の宇佐大宮司公通の場合は本拠地が近いこともあって、対馬国の利点を生かしやすかったのだろう。ただし、高麗との関係とともに海賊衆と共存しながら国務を進めることも必要であり、けっして楽な国ではなかったと思われる。

藤原親光について6

 建久元年九月には、朝廷の要請を受けた頼朝は、円勝寺領遠江国質侶庄地頭板垣兼信を解任し、不当な行為に及ばない人物を後任に起用することを伝えている。質侶庄は待賢門院の御願寺円勝寺が創建された直後の大治三年に寄進された荘園であり、頼朝は他とは異なる庄園だと考えていた。寄進者は摂関家家司で、一二世紀後半には石見守に補任されたことで知られる藤原永範であった。この時点では待賢門院の保護者で治天の君であった白河院は健在で、翌大治四年七月に七七才で死亡している。摂関家と院との関係は十分両立が可能であった。永範が後白河院との関係を強めていくのは石見守補任後であり、大宰大弐をへて公卿に進んだ。
 建永元年から建暦二年(一二〇六~一二)に比定できる八月一二日関東御教書によると、円勝寺領出雲国長海庄地頭員綱(綱の字から勝部宿祢一族=国御家人の可能性が高い)の非法・濫行を沙汰人が幕府に訴えたのに対して、幕府は員綱を改易して清廉な人物を地頭に起用するよう、守護安達親長に命じているが、質侶庄と同様の対応である。頼朝の死後も幕府が待賢門院領に対して配慮していることがわかる。

 筑前国怡土庄は待賢門院創建の法金剛院の庄園であったが、待賢門院領を継承していた上西門院が文治五年に死亡したため、その一歳違いの弟後白河院の庄園となった。上西門院領であった文治四年に朝廷が幕府に地頭職を去り進めるべきことを申し入れたが、奥州藤原氏の平定後に対応するとの返事であったが、平定をうけて後白河院側が再度の申し入れを行っている。怡土庄預所は後白河院の側近藤原能盛法師であった。
 これも幾度か述べたが、待賢門院の同母の兄弟を祖とする徳大寺実定が建久二年一二月に死亡した際に頼朝は大変残念がっていた。以上のように、頼朝は待賢門院とその嫡子崇德院、娘上西門院の関係者を大変重視しており、親光が義家の妻が日野家出身であったためにこの表現を使用したと思われる。崇德の子重仁の母兵衛佐局も自らの「親類」だと記していた。

藤原親光について5

 親光は頼朝を通じて、その院への貢献を根拠に国守への補任を求めており、対馬守の再任を望んでいたわけではなかったが、その時点では適当な国がなかったため、結果的に対馬守に還任された。このあたりも佐伯氏の評価とは異なっている。後白河院も親光を国守に補任しようとするが、最終的に可能だったのは、平頼盛の郎従である中原清業が国守となっていた対馬国であった。頼盛は寿永二年(一一八三)五月の平家の都落には同行せず、同年閏一〇月には一条能保、持明院基家などとともに鎌倉に逃れ、頼朝の庇護のもとにあった。能保は待賢門院の同母兄弟を祖とする徳大寺家や上西門院との関係が深く、そうした中で頼朝の同母妹を妻としていたが、出世には恵まれていなかった。基家は待賢門院官女で上西門院の乳母となった女性を母とし、能保の叔父で、頼盛の娘婿であった。久安四年正月には丹波国守に遷任した兄通重の跡をうけて能登国守に補任されている。能登国は上西門院の分国となっているが、久安元年(一一四五)八月に死亡した母待賢門院の分国を継承したものであろう。
 文治二年五月に親光は対馬守に還任しているが、その後は都と関東で活動しており、対馬国への下向は確認できない。以前の下向は、内乱による畿内周辺の混乱による後白河院の意向を受けてのものであった。その親光が頼朝の「御外戚」と呼ばれた背景には父資憲の父方の祖父と母方の祖父が、源義家の正室となった女性の兄弟であることがあるのであろうか。頼朝の祖父為義については、義親の子であるとの説とともに義家の子であるという説があるが、その母は不明である。後者が正しければその母が日野氏の出身であった可能性がある。
 頼朝の母由良御前には待賢門院女房やその娘上西門院女房となった姉妹がおり、頼朝も上西門院蔵人に補任されている。そして幕府開設後は待賢門院の関係者に対して特別の配慮を行っている。頼朝は元暦元年には朝廷から没官領として拝領した備前国福岡庄を崇德院法華堂に寄進したが、問題があって法華堂が牢籠しているとして、翌文治元年には福岡庄に替えて同じく没官領として拝領した備中国妹尾庄を寄進している。また、崇德院との間に重仁親王を産み、崇德の配流先に同行した左兵衛佐局が院の死後都に戻り禅尼となっていたが、この禅尼を頼朝は親戚であると呼んでいる。文治二年三月には崇德院御領丹波国栗村庄に対する在京武士の狼藉を停止し、領家の進止に従うことを命じている。

藤原親光について4

 高倉天皇の第四皇子が生まれると、教盛と資憲の娘の子教子が夫藤原範季とともにその養育係となり、平家の都落後、その皇子は後鳥羽天皇として即位した。
 佐伯氏が親光に着目したのは藤原忠通と対馬国の関係からであった。忠通の家司源季兼が久安五年(一一四九)一二月末に対馬守に補任され、四年後の仁平三年閏一二月末には源国保と入れ替わる形で石見守に遷任している。季兼にとっては対馬守から石見守への遷任は昇進であるが、国保にとっては小国の国守への遷任であった。当時の国守は目代を派遣し、自らは都にいるという遙任が一般的であるが、国保は石見守、対馬守の時代に自ら直接下向して国務を行ったとの仮説から、同じく対馬国の下向していた親光に注目したのである。
 佐伯氏は一旦前対馬守になった親光が頼朝を通じて対馬守への還任を求めた事に焦点を当てているが、松島氏は親光が治承三年正月に対馬守に初めて補任された際の事情についても言及している。親光の除目申文には、自分は蔵人を一定期間務めており、国守に補任されてもよい時期であるとしているのみで、それも小国である対馬国を希望しており、特定の人物の後押しを受けてのものではなかった。摂関家の家司であったがために対馬守に補任されたものではない。佐伯氏は対馬守初任が成功によるものであるとの九条兼実の後の回想を採用しているが、松島氏は親光自らが補任を求めた文書には成功に触れておらず、兼実の回想には検討の余地があるとしている。宇佐大宮司公通は安元二年に対馬守に補任され、その後、成功二万疋により対馬守への再任を約束されたが、実際には実現せず、治承四年九月になって平清盛の後押しで豊前守に補任された。
 親光は前述のように治承三年一一月から翌四年一月にかけては都にいたことが確認でき、当初は対馬国に長期にわたって下向する意図はなかった。それが治承四年五月の以仁王の乱を契機に、畿内と東国では内乱状態となった。松島氏は、後白河院が内乱影響が小さい対馬国に国守親光が下向し、税収や物資の確保をすることを期待したとしている。ただし、それ以前に親光と院との間に特別な関係はなかったとする。後白河院も待賢門院の子ではあるが、親光の父資憲が深い関係を持ったのは待賢門院の嫡子というべき崇德院であった。そういう背景で下向した親光が、都落ちした平家の命令に従う可能性は低かったと思われる。親光としては対馬で蓄財した三万疋を後白河院に進めようとしたが、内乱状態で上洛は困難であり、逆に平家から攻撃をされたため、緊密な関係を持っていた高麗国に逃れている。

藤原親光について3

 この訪問の直後である一一月一四日に平清盛がクーデターを起こし、最初に基房を解任し、二〇才の近衛基通を関白とした。その後、後白河院を幽閉し、院近臣を解官して、知行国を没収した。
 基通は父基実が死亡した際に七才であったため、摂関家領は基実の妻平盛子が相続し、叔父基房が関白となっていた。それが一転して関白に補任されたが、参議などの要職を経験しておらず、父から有職故実を学ぶことがなかったため、経験不足で失態がみられ、その権威の低下がみられた。そのため、もう一人の叔父である九条兼実が補佐役を期待されたのである。兼実は早くから有職故実について高い見識を持ち、仁安元年(一一六六)には一八才で右大臣に進んだが、健康面の不安もあってその後一三年間、その官職のままで、政治の表舞台で活躍することはなかった。それが関白の補佐役とされ、その嫡子で一三才の良通も右大将・権中納言に補任された。
 こうした摂関家内部の盛衰の中、親光は九条兼実との関係を強めたと思われる。親光の兄二人が仕えていた兼実の異母姉皇嘉門院の所領の大部分が良通に譲られていたことも影響したと思われる。親光は兄二人と異なり野心家であった。
 親光は仁安四年(一一六九)正月の除目で、その前年に即位した高倉天皇の蔵人となっているが、これは姉が平教盛の妻となっていることを利用したものであろう。教盛は平時忠とともに、応保元年(一一六一)に高倉が誕生すると、二条天皇の後継に擁立しようとして、天皇から解官されているように、高倉との関係が深かった。教盛は清盛の一〇才違いの異母弟であるが、池禅尼を母とする五才下の弟頼盛(清盛とは一五才違い)とともに清盛とは一定の距離を置いていた。教盛の母は待賢門院女房であった。父忠盛は待賢門院庁の別当であり、正室池禅尼は崇德院の嫡子重仁親王の乳母となっており、保元の乱で教盛や頼盛が崇德院方となる可能性は高かったが、忠盛の死後、後家として実権を有していた禅尼が、後白河天皇方となるように指示したとされる。

藤原親光について2

   藤原親光について、佐伯徳哉氏「平安末期藤原摂関家の石見国支配と対馬地域」(『石見中世領主の盛衰とアジア海域世界』所収、二〇一八年)が言及しているが、松島周一氏「藤原親光の立場」(『愛知教育大学研究報告』第五一号、二〇〇二年)の分析との間にかなりの差がみられるので、再び確認したい。なお、佐伯氏は松島氏の論考については言及していない。
 親光が頼朝の「御外戚」と記された点ついては両者とも不明だとする。例えば佐伯氏は以下のように述べる。「頼朝が親光の行動に感じ入ったのも平家と姻戚関係にあったにもかかわらず平家に与同しなかった親光への評価であったと思われる」と。しかし、『吾妻鏡」がこのような観点で親光を「御外戚」と記すことは100%あり得ないことで、それを踏まえた分析が必要である。
 親光は崇德院の側近資憲の子(兵範記には二男で基光の舎弟とする)であり、その兄弟基光と俊光(母は新院=崇德院女房阿波、あるいは三男ヵ)は「皇太后宮大進」と系図に記されるように、崇德天皇の皇后から、近衛天皇の即位に伴い皇太后となった皇嘉門院に仕えていた。保元の乱で父資憲が出家せざるを得なかったことはその子にも影響し、長子基光は日野氏惣領資長の養子となっている。資長は藤原忠通の家司源季兼の娘との間に嫡子兼光をもうけている。後醍醐天皇の側近に登用された俊基は資憲系であるのに対して、資朝は資長の子孫である。
 皇嘉門院は藤原忠通の娘であった。親光と摂関家をつないだのも崇德・皇嘉門院であった。佐伯氏は親光と九条兼実の関係のみ指摘しているが、松島氏が指摘するように、兼実の異母兄松殿基房や近衛基実の子基通の家司としてみえた後に、兼実の家司となっている。
 一方で、親光には日野氏惣領兼光との関係もみられる。治承三年(一一七九)一一月五日に九条兼実の子良経が侍従拝賀として各所に挨拶に参っているが、関白松殿基房邸を訪れた際には基房の識事である親光を通じて事由を伝えている。本来は日野兼光に連絡していたが兼光が腫物の所労で迎えができなくなったため、代理として従兄弟である親光が出迎えたものである。続いて一二月八日に関白近衛基通が参内した際の前駆一四人の中に五位として親光がみえている。四位の中に季長もみえているが、源季兼の子である。

2018年9月15日 (土)

PCの修復2

 いろいろ試してみたが、これまでのSDD480GとHDD2Tの構成では、ファイル・アプリを維持したインストールはおろか、ファイルのみ維持する、クリーンインストールも途中で失敗となってしまった。ケースファンの中古(本来のファンより一世代前のものか。ファンの形も少し違っている)が届いたので、それを組み込んだところ、ファンに異常があるとの表示はされなくなった。特に静穏用とはうたっていないが、気になる音は発生しない。
 すべての必要ファイルを移動できたか一抹の不安はある(使用してないHDDにまるごとコピーは可能)が、SDDを新たなもの960Gのものに変更し、とりあえずHDDなしでインストールしたところ(後からHDDを増設する予定)、何の問題もなく終了した。3~4年前に、マックブックプロ用に同容量のものを購入したことがある。当時としては破格の値段3万6千円であったが、今回は1万6千円であった。1Tのタイプとなると2万円余りするが、十分である。新PCもデル製のXPS8390であるが、これは新しいタイプの高速SDD256G+HDD2Tである。
 これまでのメインPCがデル製OPTIPLEX9020MTであるので、インストール時にライセンス認証も終わっていた。新しいマザーボードでは新たにOSを購入する必要もあるので、とりあえず、この形でOFFICEとADOBE CCのインストールまで終了した。OFFICEについては、前のSDDへのインストールを、マイクロソフトのマイアカウント上で削除できたので、現時点では新PCと復活したPCの2台へのインストールである。ビジネス用は5台まで、個人用は2台までのインストールであったが、今後は個人用も5台までインストールが可能になるようである。
 ADOBE CCはPhotoshopのみは、ビデオカードを組み込んだ後にインストーする。以前、AMDのカードで、複数ディスプレイという環境でイラストレータが立ち上がらなくなったが、カードをNvideaのものに交換したら、何の問題もなく使えるようになった。ビデオ再生ではAMDにメリットがあるが、ADOBEのグラフィック系ソフトはNvidea用に最適化されているようである。
 とりあえず復活した9020は子ども用とし、子どもが使っていたCore i5搭載の3020をこちらが管理する。電源の交換が可能かを含めて、どこまでパワーアップできるか確認したい(原因は不明だが、電源交換ケーブルを利用して電源を交換したが、マザーボード上に赤いランプが点滅して起動せず)。一般的用途ならCore i5どころか、i3でも十分である。
 9020には一太郎オフィスのインストールも行うが、メールソフトはsurikenである必要はない。とりあえず、子どものアカウントはウィンドウズメールに設定した。当然、ウィルスソフトもインストールする。故障する前まではESETの3年間5台分を利用していたが、あと一年間は使用期間が残っている。別のPCでは3年で台数制限のないマカフィーも利用している。両ソフトの違いは特に気づかされてはいない。XPS8390にはとりあえずマカフィー1年分が付いていたので、その期限がきたら考えたい。実は3年5台分のESETをアマゾンで購入済であるが、期限が来るなど必要となってから使用する。

2018年9月11日 (火)

PC修復困難

 メインPCは起動はするが、スタートメニューからソフトを使おうとすると、「スタートメニューが反応しません。ログアウトしてください」と表示される。デスクトップからインターネットを利用することもできない。エクスプローラーそのものも起動できない。前に述べたが、デスクトップ上のフォルダをクリックすると中が表示され、エクスプローラーは利用可能で、問題のデータフォルダの中も確認でき、なんとか移すことができた(とりあえずEドライブに移し、そのHDDを外してUSBで接続して、新PCにコピーした)。
 ネットで調べてみると、Windows10の更新によりスタートメニーが使えなくなる事例とその修正方法がいくつか掲載されていたので実行したところ、スタートニューそのものは使えるようになったが、そこに登録されていたソフトは、Windows10本体のもの以外は消えていた。デスクトップにアイコンが残っているものを、クリックしても、一太郎は「キー割付ファイルがみあたらない」と表示され起動しない。他のソフトも利用できない。なぜかメールソフトのShurikenのみは起動したので、ファイルのエクスポートができた。インターネットも起動するとヤフーが表示される設定であったが、サイトは表示されず、そこからアドレスを入力する必要がある。
 それではと、Windows10の再インストールを行ってみる。そのための専用USBに必要なファイルをダウンロードして、ファイルやソフトを維持した上での上書きインストールを何度か行ってみるが、途中で失敗してしまう。とりあえず、このままで、必要なファイルの新PCへの移動が終わったかを確認した時点で、クリーンインストールして環境を再構築するしかなさそうである。
 ケースファンはオークションで中古をゲットし、到着待ちである。現在は起動時に必ずファンが動いていない旨が表示されるが、F1キーを押せば起動する。排熱ができないので、ケースのサイドパネルを外したままで利用しているが、とくにPC本体が熱くはなっていない。自作用マザーボードは1万円程度で入手できるので、とりあえず確保しておけば、次のトラブル発生時に利用できる。今なら新品が流通しているが、四年以上前に発売されたものなので、機を逃すと中古しか手に入らなくなる。
 これまで、自作機のマザーボードが故障し、起動できなくなったことが二度あったが、同じ製品の中古を入手し対処した。元通りに起動したが、今回はメーカー製である。同機のマザーボードもオークションで流通しているが、二万円程度するし、これもいつまであるわけではない。同じPCそのものは五万円から八万円台で中古が流通してはいる。
 いずれにせよ異常があると慌ててしまい、逆に深みにはまることがある。今回ももう少し冷静に対処すれば、被害の程度は軽微であった気もする。SDDとHDDを正しくつないだが不具合があったので、間違えたと勘違いし、つなぎ先のSATAケーブルを逆にしてやってみたのが、問題であったと思う。いずれにせよ、Windows10は8.1までより格段に扱いずらい。それに対して当方のPCの知識は以前より少なくなっている

2018年9月10日 (月)

石田六郎左衛門尉に関する補足

 石見石田家文書の石田氏が、安芸国から入部したと主張していることに関連して、毛利氏と棚守氏との連絡役としてみえる石田六郎左衛門尉について言及したが、若干の点を補足したい。
 石田六郎左衛門尉の実名は未だ確認できていないが、使者としてみえる文書は棚守氏関係文書には天文九年(一五四〇)から天正一〇年(一五八二)まで確認できる(なお中間段階である)。大内氏からの文書にもみえるので、石田六郎左衛門尉は棚守氏側の人間ということになる。
 厳島神社神主は承久の乱以降、その時々の政治情勢の影響を受け変化しているが、一五世紀中頃の神主教親(親春)は毛利氏氏一族の長屋氏から養子に入ったとされる。棚守氏は神領衆野坂氏(厳島神社文書の中で厳島野坂文書は大きなウェイトを占めている)の出身であるとされるが、その中興の祖である棚守房顕(多くの文書を残し、記録も作成)は元亀二年一二月二七日厳島社遷宮行列式書立(『広島県史古代中世資料編2』)には「大江朝臣房顕」とみえ、毛利氏の一族であることがわかる。「顕」の字も大江広元の子孫の名前にはよく使われる字である。
 ということで、石田六郎左衛門尉は毛利氏ではなく棚守氏の関係者であったが、一方で棚守氏は毛利氏の一族であった。この石田氏の一族が石見国に入部し、毛利氏家臣として活動するというのは十分可能性があることになる。また、石田六郎左衛門尉の名について「春軄」ではないかとしたが、年未詳三月二九日毛利隆元書状には「春軄房」を派遣したことが記されており、両者は同一人物である可能性があり、その場合は石田六郎左衛門尉とは別人となる。以上、安芸国の事には全く不案内であるが、とりあえず『広島県史古代中世資料編2』を走り読みした中間報告である。

2018年9月 9日 (日)

9月前半の状況2

 メインPCは某メーカーのビジネス機の型番九千番台のものであったが、3年前には思いかけず3千番台の低価格タイプのものも約3万円(こちらも新品なら10万円程度する)で落札し、こちらは子どもが使用している。前面と背面のポートの数は少なく、ケースも九千番台機はワンタンチであけることができるが、こちらはネジを外さなければならない。背面のケースファンも別ものである。電流は確認しなかったが羽の形状も違っている。ただし、廉価版といってもCPUはcore i5であり、i3やセレロン、ペンティアムではない。電源がプアーなのでアマゾンで通常電源が利用できるケーブルを購入し、i7機は利用できたが、i5機では動作せず。ただし、本来対応しているはずなので、近々再度確認したい。ファイルの移動ができたので、なんとか状況を説明できているが、大変なダメージをうける可能性もあった。ころばぬ先の杖として何をすべきであろうか。とりあえず、データはCドライブには保存しないことであろう。
 新PCは同じメーカーの個人向けのタイプで、SSDもSATA3タイプより高速であるが、起動時間を含めて、それほど差は感じない。高解像度のゲームやビデオ編集でもすればありがたさがわかるのだろうが、そういう方面には関心がない。前PCは補助電源なしで使用できるビデオカードではもっとも高性能のものを利用していたが、新PCはその一つ上で補助電源が必要なタイプが装備されている。タワータイプだと思っていたが、実際にはミニタワーで、前PCより奥行が短い。前のPCではケースから熱を感じることはなかったが、今回は時に熱を帯びている。
 前PCについても低予算での復活を行いたい。とりあえず、中古のファンを入手して試したいが、性能は今でも十分である。長く使おうと思えば、マザーボードを新規に購入して、自作することか。とりあえず、CPUファンとケースファンを追加購入すれば、組み立てることはできる。メーカー製の5ピンタイプのマザーボードに一般的な4ピンのファン(CPUとケース用)をつなぐ変換ケーブルもアマゾンで販売されている。ビデオカードもそこそこの性能なので、子どもがビデオ編集を行うには十分なスペックである。本来はSDDを新規に購入しており、それにOSを新規にインストールして子ども用にするつもりであったが、このような事になってしまった。とりあえず新PCでの最初の記事であるが、保存先はDドライブである。ブログにアップした記事はそこから復元可能でもある。ワード・エクセルのバックアップも作成する設定にしたい。

9月前半の状況1

 USBの内容が失われてまだそれほど日数がたっていないが、今度はメインPCに異常が発生した。メインPCは3年ほど前にオークションで5万円台で入手したビジネスPC(発売開始から1年が経過しており、新品なら20万円近くするが、商品は新品同様であった。いわゆる初期不良でメーカーへ返品されたものを修理したものであろう)で、その後、SSDやビデオカードを増設してきた。第4世代のcore i7を搭載していた。その後5・6・7世代が登場したが、さほど性能差はなく、更新する必要性は感じなかったが、第8世代では大きな進歩がみられたようなので、少し食指をそそられた。性能は第4世代から5割増しだが、消費電力は20%下がっている。AMDのCPUも性能面では差を詰めてきたが、なお消費電力が大きいので今回もインテルにした。最近はオークションを見ることは少ないが、以前のように安価なものには出くわさない。
 ということで、10年ぶりに新品を購入した。電源は通常のタイプで、ビジネス機よりワット数も大きいし、容易に交換できる。それが届いたのでメイン機のデータを移動させ、必要なソフトをインストールしていた。元のPCを使う必要があり、新PCにUSBでつないでいたSSDとHDDを元のPCにつないで立ち上げたところ、異常が発生し、使用できない。狐につまれたような気がしたが、とりあえずビデオカードを外して内蔵のDPポートにモニターを接続した。なんとか起動したが、画面の背後が黒くなっていた。ほとんどのソフトのアイコンをクリックしてもソフトが起動しないのである。一部はすでに新PCに移動していたが、Cドライブのユーザーフォルダは、他のPCにUSBでつないでも「管理者権限」がないと、コピーもできない。とりあえず、フォルダを開くとエクスプローラーが起動するので、そこからHDD内のEドライブ領域にコピーした。問題はメールである。メーラを立ち上げて、そこからエクスポートファイルを作成し、そのファイルを新PCで起動して、作成したファイルからインポートするしかなかった。たまたま、偶然にメールソフトShurikenが起動したので、エクスポートファイルを作成して取り込んだ。以前は受信フォルダのみファイルを作成したが、今回は送信フォルダのバックアップも作成した。
 ということで、ほとんどのファイルはコピーできたと思うが、整理する余裕はなく、新PCのdドライブ(HDD)内を検索して必要なファイルを探すしかない。元のPCの故障の正確な原因は不明だが、ケースファンが動かなくなっており、起動時にそのことが表示されていた。同じ型番のファンを検索すると、シャープを買収した台湾メーカー製で新品では1万円近くして驚かされた。9cmのファンで、近年は静音タイプで低電流・低回転のものが好まれる。静音タイプが12Vで電流0.2A以下であるのに対して、0.6Aで静音タイプではない。前面の吸入ファンはなく、CPUファンと排出ファンのみのためであろうか。ただし、使用中はファンの音はまったく気にならず、それがために動かなくなったことに気づかなかった。

2018年9月 5日 (水)

金持広栄について

 一三世紀前半の伯耆国守護金持氏は宝治合戦で三浦氏方となったことによりその勢力を低下させたが、なお伯耆国内にも所領を有しており、後醍醐が船上山の戦いに勝利すると、そのもとに参陣した。後醍醐が都へ帰還する際に金持大和守(広栄)が錦の御旗を持っていたことがみえ、建武三年二月の窪所結番と四月の武者所結番には金持大和権守広栄がみえる。
 元弘三年八月二日、備前国新田庄内安養寺に対して、藤原広栄が禁制を発している。これは金持広栄であり、勲功の賞として新田庄内を与えられ、安養寺側からの要請を受けた広栄がそれに応えたものであろう。一方では、因島庄に対する伯耆守一族杵築氏による押領や若狭国名田庄に対する布志名雅清家臣による押領が訴えられていた。七月一〇日には安養寺衆徒代高角が、備前国大将軍となった三石地頭伊東大和九郎宣祐の催促に応じて御方となり、兵粮米の沙汰と祈祷を行ったことの披露を奉行所に求めている。
 広栄は南北朝の動乱開始後も南朝方として活動しているが、一族の中には幕府方となったものがいたことはすでに述べた通りである。そこで注目されるのが、年未詳七月七日金持金王丸挙状である。建武三年四月一一日には備前国大将石橋和義が尊氏の意を奉じて安養寺に備前国藤野保内国衙分田田地二町を寄進している。筑前多々良浜の戦いで勝利した尊氏が上洛している最中のことであった。まさに南朝方の金持氏の基盤を切り崩すものであった。安養寺衆徒もこれに応えて赤松入道円心のもとで軍忠を積むとともに、六月一七日に社頭で厳重霊瑞がみられた際にも祈祷を行ったとして、足利尊氏に対して料所の寄進を求めている。
 この申状に関する挙状を、当給主金持金王丸が七月一七日付で奉行所に提出している。奇瑞に関する問に答えるとともに、安養寺衆徒が祈祷を行うことを命じた綸旨に任せて祈祷を行っていることを述べたものである。金王丸は広栄の関係者で、新田庄の管理にあたっていた人物であろうが、安養寺衆徒とともに幕府方として行動している。問題はその提出先であるが、御方御忠により新田庄を御官領した人物とは、建武政権の備前国守護でありながら幕府方に転じた松田盛朝ではないか。
 建武四年に比定される年月日未詳安養寺衆徒申状によると、去年三月頃に石橋和義が児島から将軍家御祈祷を行うように命じ、それを受けて一一日から七日間祈祷を行い、それを言上したところ、守護松田氏と加地新左衛門尉を奉行として奇瑞感見之輩について召尋ねがあったとしており、金王丸挙状はこれに対する報告であった。
 以上、伯耆国金持広栄が勲功の賞として備前国新田庄を与えられた事と、動乱開始後、幕府はそれを闕所として守護松田氏に与え、新田庄に残っていた金持氏一族の中にも幕府方となるものがあったことを述べた。広栄自身はその後も南朝方として行動している。

2018年9月 4日 (火)

中世前期の伯耆国武士団5

 伯耆国の武士の中で、戦国期に至るまでその勢力を保ったのは日野氏と小鴨氏である。東部の小鴨氏は西部の紀氏と対立し、本来は平氏との関係が深かったが、紀氏が後白河院の宮を擁立したことで、一の谷合戦での被害を免れた。これに対して反平氏=後白河院方であった紀氏は、宮の擁立が後白河の認めるところとならなかったことで、逆に幕府の弾圧を受けてその勢力を低下させた。日野氏については史料を欠いているが、鎌倉幕府御家人としてみえ、その勢力を維持したと思われる。野津氏についても同様であったろう。反小鴨氏の立場から紀氏と結んでいた原田氏は、院の宮を擁立した紀氏の動きには同調せずにその地位を維持し、その系図によると、笏賀庄、東郷庄、竹田庄等の地頭となり、一族の中には鎌倉で活動するものもあった。隣国因幡国では佐治氏が六波羅探題の奉行として、長田氏が幕府評定所の役人として活躍するなど、幕府との関係を強める国御家人がいた。
 このような前提で後醍醐と伯耆守長年一族の船上山での旗揚に日野氏が早くから協力したのは出雲土屋氏との関係があったと思われる。勢力を低下させていた紀氏は長年に協力した。そのライバル小鴨氏は幕府との関係が強かったため、六波羅探題でもあった北条時益の守護代糟屋氏と同様、長年により攻撃されている。「名和」に隣接する野津を本拠とする野津氏も同様であったと思われる。『梅松論』が後醍醐一行が着いた地点を「名和庄野津郷」と記すのも気になるところである。「名和庄」が本来は野津氏の支配するところで、恩賞により伯耆守長年に与えられたとの想定も可能である。
 このようにピンチに追い込まれた小鴨・野津氏であったがゆえに、足利尊氏が蜂起すると、そのもとに参加し、結果としてその勢力維持に成功し、長年と結んだ紀氏はさらにその勢力を低下させた。一方、一旦は長年に協力した日野氏であったが、本来は紀氏と地盤が競合しており、動乱が始まると、日野義行は出雲国守護塩冶高貞と同様、尊氏方に転じ、出雲佐々木氏一族の羽田井氏とともに杵築大社神主をめぐる問題で、高貞の命令の執行を命じられている。これにより日野氏もその勢力を維持した。
 極めて大雑把で不十分なものである(今後の検証に基づき、加筆・修正する)が、とりあえずは以上の通りである。

中世前期の伯耆国武士団4

 頼綱の父泰経は藤原北家良門流の兼輔の末流であるが、この一族は因幡・伯耆・出雲国司としてこの地域の勢力との間に関係を築いてきたと思われる。兼輔の子雅正の子為長の孫が泰経であるが、雅正の子為頼の孫頼成は一一世紀前半に因幡守を務め、その子清綱と孫忠清は一一世紀後半に出雲守を務めている。忠清の兄弟隆時は因幡・但馬・近江守を歴任し、その子が院近臣で、子光隆が出雲守であった際に知行国主として杵築大社造営・遷宮を行った清隆である。兼輔のもう一人の子守正の曾孫成親と章俊は一一世紀後半に出雲守を務めている。
 一二世紀後半の伯耆守は、平治の乱以降は平清盛の関係者が務めることが多いが、その一方で院近臣である平範家-親範-基親が一一四八~一一五六、一一五九~一一六六と足掛け一五年間、伯耆国司(知行国主と国守)を務め、庄園の立券・寄進にも関わっている。範家の妻は清隆の娘であり、両者の間に生まれたのが親範であった。親範が伯耆守であった際の知行国主は父範家ないしは母方の祖父清隆であろう。平基親は高倉天皇・平徳子に仕え、治承三年の政変で解官されているように、清盛よりも後白河との関係が強かった。
 清隆とその子光隆・定隆は、安芸国・備後国・備中国・美作国司も務めており、中国地方中部から東部に大きな勢力を持っていた。清隆は待賢門院別当となる一方で、妻家子が近衛天皇の乳母となっていた。その多数の子女を通じて他の院近臣の有力者との間に姻戚関係を持っていた。その遺産により一三世紀初めに死亡した子光隆までは有力な院近臣の立場を維持していた。伯耆国乃津判官の台頭の背景に清隆流の存在があったと思われる。

中世前期の伯耆国武士団3

 本来、この文は野津蔵人仲義について、情報をいただくとともに、関係史料を調査したことで書き始めたものであった。系図以外では確認できないが、一一世紀後半の伯耆守に藤原頼業という人物がいた。藤原南家真作流に属している。真作は南家の祖武智麻呂の子巨勢麻呂の子で、系図によると石見守・三河守・阿波守等を務めている。その後、三守-有貞-経邦-保方-棟利-方正-実房を経て頼業に至る。三守は公卿となっているが、概ね受領を歴任している。頼業の系図には頼綱に関する記載は無いが、時期的には矛盾がなく、藤原北家良門流に属す治部少丞頼綱について、二条関白勾当(摂関家の侍所で別当のもとで事務を担当)泰経の子とする(尊卑分脈)一方で、別本の注として、頼綱は伯耆守頼業の子で在国して伯耆治部と号しており、その子孫が伯耆国にいることと、さらには、伯耆国住人で乃津郷住人の子であったが、頼業が伯耆国に下向した際に養子として、上洛した際に相具したと記している。
 そのようなことがあるのかとの疑問もあろうが、以前、平正盛の後を追うように白河院のもとで受領を歴任した武士藤原盛重のことを思い出した。周防国出身で東大寺に侍童として仕えていたのを白河院に見初められ、院のもとに近侍するようになったことがその後の出世につながった。父国仲は桓武平氏高棟流の一族で、祖父生昌は播磨守・大宰権帥を務めたが、父以康は生昌の晩年の子であったためか、良門流の藤原資国の養子となり、藤原姓に改めたという。盛重の子孫も北面として院に近侍するが、その孫には後白河院に登用された藤原能盛がおり、その弟兼盛は、清盛の娘で摂関家領を管理した盛子が死亡した際に、摂関家領の管理にあたる白河殿倉預に補任された。院の寵臣であるがため、能盛は治承三年のクーデターで解官され、兼盛は平氏方に襲撃されて手首を切られたとされる。
 ともあれ尊卑分脈には頼綱の孫義保が右馬頭を務める一方で乃津(野津)冠者と号したとする。その子が治承三年に坪上山の戦いで小鴨氏と結んで原田氏・紀氏連合軍と戦った仲義で、上西門院蔵人でもあった。上西門院は後白河院の一才上の同母姉であり、母待賢門院領を継承したことでも知られている。

中世前期の伯耆国武士団2

 船上山合戦の直後に後醍醐から感状を与えられ、但馬国内二ヶ所を恩賞として与えられた巨勢氏の文書は相見氏が所持しているが、両者の関係は不明である。相見氏が紀氏を称しているので、巨勢氏も紀氏であるとの論は理解不能である。相見氏と巨勢氏との間に姻戚関係があった可能性はある。相見氏は巨勢氏が得た所領を由緒の地として獲得しているが、単純に相見氏=巨勢氏とはならない。
 鎌倉中期の伯耆国の武士団を西からみると、紀氏は会見郡(東部)が本拠、日野氏は日野郡、汗入郡は長田氏、八橋郡は野津氏、久米郡は小鴨氏、河村郡は原田氏が本拠であろう。院政期の時点では汗入郡は会見郡とならぶ紀氏の本拠地であったが、鎌倉初期に所領を没収され、その跡に地頭として入部した東国御家人が長田氏を名乗ったと考えられる。その他は国御家人である。小鴨氏の系図によれば、小鴨基康は後白河院の宮を擁立した紀氏の勢力拡大に危機意識を抱いて、一の谷から帰国したとされるが、それは日野氏も同様であったと思われる。これが結果として鎌倉幕府のもとで小鴨氏と日野氏が生き延び、紀氏が勢力を削減された原因となったであろう。『吾妻鏡』建久元年六月二七日条には、去年の冬に院の召次を凌轢した罪で伯耆国住人「海大成国」が幕府に捕らえられ囚人として侍所別当和田義盛のもとに預けられている。院領の管理のため下向してきた使者に濫妨を働いたのだろう。紀氏でも三能氏のように会見郡を拠点とする一族は生き残り、後醍醐と伯耆守長年に協力した。ただし、反幕府方となったことでその勢力をさらに後退させた可能性が高い。
 伯耆守長年が苗字の地とした長田については、会見郡説と汗入郡説があるが、関係史料を総合的に判断すると、汗入郡長田にしかならない。籠城した船上山は汗入郡の西隣八橋郡にある。この郡を拠点とする野津氏の対応は不明であるが、後醍醐一行は野津氏の勢力圏に着いた後に(『古本伯耆巻』と『舟上記』では汗入郡片見とする)、西に戻って伯耆守に使いを送って船上山に籠城している。
 嘉暦2年3月25日には伯耆国久米郡立縫郷内津原村地頭金持新三郎廣顕と子息藤原松夜叉丸が願文を捧げている(紀伊熊野本宮文書)。応安元年一〇月には金持弾正による伯耆国汗入郡宇多河庄への濫妨停止を命じた後光厳天皇綸旨が出されている。一時期伯耆国守護であった金持氏の所領については史料があまりないが、伯耆国中部であろうか。金持神社は出雲国と境を接する日野郡にあり、日野氏の勢力圏である。

中世前期の伯耆国武士団1

 治承三年(一一七九)二月二二日 坪上山(汗入郡)の合戦で原田(東郷)家平とその従兄弟である俊兼・俊家兄弟が討死している。相手は野津蔵人仲吉(仲義)と小鴨基泰であった。この合戦については、今回ようやく知ったが、原田氏側にも他の一族の与力もあり大規模なものであったと思われる。小鴨氏は伯耆国衙在庁官人で伯耆国東部に勢力を持っていたとされ、摂関家(近衛家)領笏賀庄と松尾社領東郷庄の寄進者である原田氏とは競合関係にあったと思われる。
 これに対して、寿永元年(一一八二)八月には伯耆国住人紀成盛(海六)と小鴨介基保の間で大規模な合戦があり、今回は紀成盛側が勝利を収めた。幾千とも言われる死者が出たとの噂が流れるほどのものであった。前回のこともあって出雲・石見・備後国などから与力があったという。この前回の戦いが坪上山の合戦であり、紀(村尾)氏を支援する原田氏が野津氏と小鴨氏の連合軍に敗れたのであろう。
 小鴨氏と紀氏の対立は大山寺縁起にも記され、紀海六が佐摩党(汗入郡大山町内の長田の東南3kmに佐摩あり)とともに小鴨と結ぶ大山寺鏡明房を討ち取っている。その後、養和元年(一一八一)二月二八日には小鴨氏が紀氏と結ぶ大山寺修禅房を攻撃している(大山寺縁起詞書には養和六年とするが、誤りヵ)。
 元暦元年二月二日には、後白河院の子と称する宮を紀海六業盛が支援して伯耆国半国を支配する勢いであることが記されている。ただし、紀氏のライバルである小鴨基康はこれに従っていないという。この直前の一月二〇日には源義仲が近江国粟津で敗死し、直後の二月七日には一の谷合戦が行われている。源平盛衰記には小鴨基康・村尾海六・日野郡司義行の名前がみえる。小鴨基康については平家方として問題ないが、村尾海六の場合は派遣したのはポーズであろう。
 その後、紀海六の名はみえないが、この宮の擁立が原因となって鎮圧された可能性がある。ただし、鎌倉末期には内河右頼の娘が伯耆守長年と紀姓の三能(会見郡美吉)為成の妻となっており、為成は船上山合戦で長年方となっている。これに対して幕府との関係が深かった小鴨氏は敗走する清高軍を攻撃する伯耆守長年の軍によって城を攻め落とされている。この時点の伯耆守護は六波羅探題南方の北条時益、守護代は糟屋氏であった。

2018年9月 2日 (日)

石見国益田庄御旧封古事記2

 次いで益田兼見の父兼方についてはほとんど情報が無いが、万福寺過去帳からの引用だとして「延文二丙五月廿二日 得生院殿即阿兼方大居士」と記す。延文二年(一三五七)の時点では兼見はなお反幕府方であり、正平一二年が正しいと思われるが、後に北朝年号に改めたのであろう。同年は丁酉年であるが五月は丙午月であり、「丙五月」には問題がない。正平八年頃、幕府方に戻ろうとした兼世・兼利父子が殺害され、庶子であった兼見が惣領となったと思われるが、その時点では兼方は生存していたことになる。兼方は兼世とともに兼弘の子である。兼弘は阿忍への不義理により伊甘郷を悔い返されたが、兼見は自らが弥冨郷を支配するのは、正和五年二月に阿忍がその孫子に分与したことを根拠としており、阿忍の曾孫兼方もその中に含まれていたと思われる。
 兼見は阿忍領であった伊甘郷地頭となっており、次いで益田氏惣領となったとの説もあるが、観応の擾乱以前の幕府方としての兼見の軍忠状を見る限り、従者も少なく、小規模な所領の地頭であったと思われる。同様に、尼永安良海が嫡子兼貞への譲与を悔い返して、庶子経兼(幕府方であった際には経明)を惣領とするが、それ以前の恒明の軍忠状も従者が少ない。良海は三隅氏の庶子永安氏であったが、吉川氏から婿養子を迎えた。ただ、その後、弟兼員が永安氏惣領となったこともあって、良海の嫡子は経貞と「兼」を付けていないが、庶子経兼は「兼」を付けていた。南北朝動乱が開始されると大多数の吉川氏は幕府方となったが、永安氏の本家三隅氏は南朝方であった。良海の子は三隅氏とは異なり幕府方となり、その関係で経兼は経明と改名した。ところが観応の擾乱の直前に、良海は反幕府方に転じ、嫡子経貞を義絶するとともに、新たに惣領とした経明の名を本来の経兼に戻した。

石見国益田庄御旧封古事記1

 須佐郷土史研究会東京部会の『研究資料第十号』に「石見国益田庄 御旧封古事記」(萩博物館所蔵小国家・松本家古文書)が翻刻・紹介されている。その個々の内容は検討しつつ利用しなければならないが、ここではその記述の内、阿忍と益田兼方に関するものを紹介する。
 阿忍は三隅兼信の娘で、益田兼長との間に生まれた娘が益田兼弘(法名道忍)の母とされる。この阿忍について夫兼長が死亡した際には二五才であったことと八十余才まで生きたことが記されており、その生年を知る手がかりとなる。
 阿忍譲状によると夫兼長の遺領の配分がなされたのは文永一〇年であった。兼長の死をとりあえず文永九年(一二七二)年とすると、阿忍は宝治二年(一二四八)の生まれとなる。阿忍は正和五年(一三一六)二月に置文を作成しており、この後間もなく死亡したと思われる。ただし、宝治二年の生まれだと六八才にしかならない。また、父兼信は寛元四年(一二四六)が死亡したことで、子乙法師丸が永安別符以下の所領を安堵されているので、やはり宝治二年説は成立しない。仮に正和五年に八〇才であったとすると嘉禎三年(一二三七)の生まれとなり、二五才であるのは文応二年(一二六一)となる。兼長の死亡から配分まで一〇年以上が経過したことになる。
 兼長には同母弟と思われる松房(兼久)がおり、延応元年(一二三九)九月には一旦、周布兼定領の内、周布郷と安富名を譲られるとの和与が成立しており、兼久並びにその兄兼長の誕生もそれ以前でなければならない。してみると、兼長の妻阿忍が嘉禎三年の生まれであるとの想定が的外れではないことになる。兼長死亡時に阿忍が二五才であったのが誤っているとの考えも可能だが、敢えて記しており、やはり、兼長の死後、後継問題を含めて所領の配分には時間がかかったのではないか。
 惣領の後継者は兼長の兼久しかないのではとの意見もあろうが、そうだとしても配分は簡単ではない。また、龍雲寺蔵御神本三隅氏系図のみにしかみえないが、兼長には小笠原氏から迎えた養子(後の兼頼)がいた。「系譜」(萩博物館所蔵周布家文書)には、兼長の父兼時の妻は小笠原長経の娘だと記されている。兼長の母もこの女性であり、それゆえに母方の祖父に因んで兼長(最初は兼経とも)と名乗ったのだろう。
 兼久が惣領を継承した際には、一旦は兼頼をその養子にしているが、最終的に兼頼は丸毛兼忠の養子となり、丸毛別符を相続している。その背景には益田氏惣領家の所領の大部分が没収されたためであった。そのため、丸毛兼忠の曾孫兼幸は丸毛別符については一分地頭職を父から譲られたのみであったが、兼久の妻の所領であった安富郷を、自らの祖母から譲られている。

2018年9月 1日 (土)

立原幸隆書状について

 松浦家文書一八号文書の花押が気になっていたが、よくみると立原幸隆の永禄四年以降のⅡ型の花押ではないか。出雲尼子史料集でその花押を確認すると、署名とともに花押が記されており、幸隆の隆の部分と花押の部分が一部重なっていることが多いが、松浦家文書のものは重なりがなく、写す際にそのようにしたのであろう。「隆」と「俊」の崩し字は花押と重なることが多い最後の部分を除けは似ている。この文書は立原幸隆書状としてよかろう。最初は「幸俊」の名から津森幸俊ヵと思い花押を確認するが、全く別物でありがっかりしたが、よくよく確認すると以上のことが判明した。
 松浦家文書一二号のみは、某が毛利氏のもとで警固に馳走した状況を報告している。永禄六年正月一八日の命令を受けてのものであり、それ以降に毛利氏のもとでの活動を報告したものである。案内者としての役割を期待されたもので、報告者は松浦氏の関係者である可能性が高い。永禄四年には松浦氏も出雲国にいたと述べたが、その経済的活動のため、主家である温泉氏とは異なり石見国に残ったか、松浦氏内部で富田城に籠城したものと迩摩郡に残ったものに分かれたと思われる。その意味では一三号文書年未詳二月二六日某景俊書状も注目される。宛所は松浦源左衞門ではなく、これのみ松浦内蔵丞である。
 一八号文書に戻ると、立原幸隆単独の書状は松浦家文書の残り方からして永禄四年のものであろう。前にも述べたが、幸隆が真鍋豊信と連署した米留印判状の花押はⅠのタイプであり、永禄三年以前のものであるが、これをとりあげた論文では一方では永禄五年と、もう一方では永禄四年のものだとされ、出雲尼子史料集では永禄四年とされた。有効な情報を読み取らない典型的な誤りである。

伴姓富永氏について

 石見国の伴氏について述べ、石見国在来の勢力であるとしたが、安濃郡波祢(羽根)氏と邑智郡出羽氏は伴姓富永氏だとする。波祢氏は戦国期の棟札により確認でき、出羽氏は萩閥の系図による。出羽氏は近江国から配流されたことが石見国への入部のきっかけとする。三河国における富永氏の活動も知られているが、三河国は鎌倉時代から足利氏の勢力が強く、富永氏は足利氏一族の吉良氏の家臣となっている。
 伴氏一族である都野氏の本領都野郷の地頭職は、都野氏が南朝方であったために幕府により没収され、吉良氏に与えられた。吉良氏はそれを東福寺に寄進したが、都野氏だけでなく、安濃郡波祢氏もこれに介入し、訴えられている。伴氏については不明な点が多いが、伴氏である都野氏の本領が没収され、それが伴姓富永氏をその勢力下に置く吉良氏領となり、吉良氏が東福寺に寄進したことに対して、伴姓富永氏の出身である波祢氏がこれに介入している。キーワードは伴氏なのである。
 西田氏は波祢氏の本拠地波祢と都野がともに水運の拠点であったためとしたが、水運の拠点は石見国にはいくらでもある中で、波祢氏があえて都野郷に介入したのはそれ以上の関係があったためであろう。前にも述べたが「水軍勢力」とか「水運の拠点」といった一般的表現には違和感を隠せない。
 内陸部である安芸国大朝庄地頭となった吉川氏は駿河国入江庄内吉川が本領であるが、入江庄内の武士は水運との関わりが強く、且つ梶原景時の討伐の勲功により、淡路国と播磨国内の景時領を恩賞として与えられた。駿河国は幕府成立時に武田氏の勢力圏であり、後に頼朝が支配した。そのため、駿河国武士の上には惣地頭として幕府の有力御家人がおり、吉川氏の勢力拡大には制約があったが、景時討伐が飛躍の契機となった。
 一方、景時時点の守護領とその後任である播磨国守護小山氏と淡路国守護佐々木氏の守護領の状況には変化が生じた。承久の乱までの石見国守護佐々木広綱領とその後任守護の所領との間にも同様の問題があるのではないか。淡路国ではたまたま京都大番役を勤仕するため御家人が上京していたために国御家人が京方となり所領を没収されたが、本領が駿河国入江庄にある東国御家人は大番役の対象外であったためか、所領を没収されておらず、逆に乱後に新たに恩賞として所領を与えられている。石見国内に所領を有した東国御家人の中で、守護とともに京方となった御家人は少なく、佐々木広綱跡が後任の守護と勲功をあげた東国御家人に分割して与えられたのではないか。
 石見国の伴氏が東国御家人の可能性があると考えさせられたのは、文永八年の大東庄内縁所(遠所)の地頭であった縁所五郎が、国御家人ではなく、鎌倉初期に所領を得て入部した相模国御家人土屋氏の一族であることを知ったためである。また、伴姓である都治氏の記録からも、それまでの和気氏領に鎌倉初期に東国御家人が入部した旨が記されている。都治氏とその惣領である河上氏も東国御家人である可能性が出てきたとせざるを得ない(伴姓富永氏の方が可能性は高く、区別すべきかも知れない)。

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