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2018年9月27日 (木)

藤原光盛について

 久安三年(一一四七)三月二八日の時点で和泉国に藤原忠実七〇才賀の儀式の饗の負担が課せられていた。その時点の国守藤原光盛は日野実光の子で、資憲、資長の弟であった。『中右記』保延元年(一一三五)八月一日条に初めてみえ、仁平三年(一一五三)正月七日には中宮[権]大進を務めている労に対して、臨時給として正五位下に叙せられている。当時の年齢は三〇代半ばであろうか。一方で佐渡守の公文勘会が完了していない中での臨時給であったことが記されている。光盛が佐渡守に補任されたのは久安五年一二月三〇日であり、仁平二年六月二七日には後任の高階為清の佐渡守現任が確認できる。光盛は二年程度佐渡守に在任したことになる。同日には平忠盛と池禅尼の子で二一才である頼盛も正五位下に叙せられているが、これは一院=鳥羽院給によるものであった。また頼盛の異母兄教盛が従五位上に叙されているが、これは新院=崇德院給によるものであった。教盛は頼盛より五才年長であるが、母は待賢門院女房(藤原家隆の娘)であった。
 光盛に関して注目されるのは平盛兼との間に和泉守と佐渡守を相博した形になっている。光盛が和泉守に補任されたのは康治元年(一一四二)正月二三日で、卜部兼仲の後任として二期八年務めたと思われる。その際の知行国主は藤原忠通である。これに対して平盛兼は北面下臈で左衛門尉であり、元永二年九月の白河院の熊野参詣の御共人として平正盛・藤原盛重などとともにみえる。大治二年一〇月二九日、白河・鳥羽両院の高野詣に使大夫尉資遠とともに供奉。また大治四年一一月には興福寺衆徒の追捕のため、源為義とともに派遣されている。
 久安五年末に忠通の知行国である和泉国と佐渡国の国守が入れ替わったものであろう。盛兼は和泉守を重任し、保元元年九月一七日に忠通の側近藤原邦綱と交代している。光盛の後任の佐渡守高階為清は応保元年九月の除目では大殿=忠通からの申し入れにより主殿頭に補任されており(『山塊記』)、やはり忠通の関係者である。盛兼本人も天永二年一二月一六日に藤原忠実が春日社詣を行った際には神楽の舞人を務めている。久寿二年二月一日の法勝寺千僧御読経に鳥羽法皇・美福門院が行幸した際に、左大臣頼長が退出しようとして盛兼の子信兼に射られ、従者が負傷する事件が起こり、父盛兼が頼長に対して名簿を提出しているが、それも盛兼が忠通に従う存在であったからであろう。ただし、保元の乱では盛兼は後白河天皇方となった。
 以上、光盛について検討したが、和泉国に加えて佐渡国も当該時期には忠通の知行国であったと考えられる。佐渡守は保延三年(一一三七)一〇月六日に高階為重が補任され、久安元年(一一四五)一二月三〇日に某が重任し、同三年七月二四日に盛兼の在任が確認でき、重任した某とは盛兼であった可能性が高い。為重が一期四年務めた後に盛兼が永治元年末に補任され、その四年後に重任した可能性が高い。

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