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2018年9月18日 (火)

藤原親光について6

 建久元年九月には、朝廷の要請を受けた頼朝は、円勝寺領遠江国質侶庄地頭板垣兼信を解任し、不当な行為に及ばない人物を後任に起用することを伝えている。質侶庄は待賢門院の御願寺円勝寺が創建された直後の大治三年に寄進された荘園であり、頼朝は他とは異なる庄園だと考えていた。寄進者は摂関家家司で、一二世紀後半には石見守に補任されたことで知られる藤原永範であった。この時点では待賢門院の保護者で治天の君であった白河院は健在で、翌大治四年七月に七七才で死亡している。摂関家と院との関係は十分両立が可能であった。永範が後白河院との関係を強めていくのは石見守補任後であり、大宰大弐をへて公卿に進んだ。
 建永元年から建暦二年(一二〇六~一二)に比定できる八月一二日関東御教書によると、円勝寺領出雲国長海庄地頭員綱(綱の字から勝部宿祢一族=国御家人の可能性が高い)の非法・濫行を沙汰人が幕府に訴えたのに対して、幕府は員綱を改易して清廉な人物を地頭に起用するよう、守護安達親長に命じているが、質侶庄と同様の対応である。頼朝の死後も幕府が待賢門院領に対して配慮していることがわかる。

 筑前国怡土庄は待賢門院創建の法金剛院の庄園であったが、待賢門院領を継承していた上西門院が文治五年に死亡したため、その一歳違いの弟後白河院の庄園となった。上西門院領であった文治四年に朝廷が幕府に地頭職を去り進めるべきことを申し入れたが、奥州藤原氏の平定後に対応するとの返事であったが、平定をうけて後白河院側が再度の申し入れを行っている。怡土庄預所は後白河院の側近藤原能盛法師であった。
 これも幾度か述べたが、待賢門院の同母の兄弟を祖とする徳大寺実定が建久二年一二月に死亡した際に頼朝は大変残念がっていた。以上のように、頼朝は待賢門院とその嫡子崇德院、娘上西門院の関係者を大変重視しており、親光が義家の妻が日野家出身であったためにこの表現を使用したと思われる。崇德の子重仁の母兵衛佐局も自らの「親類」だと記していた。

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