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2018年9月18日 (火)

藤原親光について5

 親光は頼朝を通じて、その院への貢献を根拠に国守への補任を求めており、対馬守の再任を望んでいたわけではなかったが、その時点では適当な国がなかったため、結果的に対馬守に還任された。このあたりも佐伯氏の評価とは異なっている。後白河院も親光を国守に補任しようとするが、最終的に可能だったのは、平頼盛の郎従である中原清業が国守となっていた対馬国であった。頼盛は寿永二年(一一八三)五月の平家の都落には同行せず、同年閏一〇月には一条能保、持明院基家などとともに鎌倉に逃れ、頼朝の庇護のもとにあった。能保は待賢門院の同母兄弟を祖とする徳大寺家や上西門院との関係が深く、そうした中で頼朝の同母妹を妻としていたが、出世には恵まれていなかった。基家は待賢門院官女で上西門院の乳母となった女性を母とし、能保の叔父で、頼盛の娘婿であった。久安四年正月には丹波国守に遷任した兄通重の跡をうけて能登国守に補任されている。能登国は上西門院の分国となっているが、久安元年(一一四五)八月に死亡した母待賢門院の分国を継承したものであろう。
 文治二年五月に親光は対馬守に還任しているが、その後は都と関東で活動しており、対馬国への下向は確認できない。以前の下向は、内乱による畿内周辺の混乱による後白河院の意向を受けてのものであった。その親光が頼朝の「御外戚」と呼ばれた背景には父資憲の父方の祖父と母方の祖父が、源義家の正室となった女性の兄弟であることがあるのであろうか。頼朝の祖父為義については、義親の子であるとの説とともに義家の子であるという説があるが、その母は不明である。後者が正しければその母が日野氏の出身であった可能性がある。
 頼朝の母由良御前には待賢門院女房やその娘上西門院女房となった姉妹がおり、頼朝も上西門院蔵人に補任されている。そして幕府開設後は待賢門院の関係者に対して特別の配慮を行っている。頼朝は元暦元年には朝廷から没官領として拝領した備前国福岡庄を崇德院法華堂に寄進したが、問題があって法華堂が牢籠しているとして、翌文治元年には福岡庄に替えて同じく没官領として拝領した備中国妹尾庄を寄進している。また、崇德院との間に重仁親王を産み、崇德の配流先に同行した左兵衛佐局が院の死後都に戻り禅尼となっていたが、この禅尼を頼朝は親戚であると呼んでいる。文治二年三月には崇德院御領丹波国栗村庄に対する在京武士の狼藉を停止し、領家の進止に従うことを命じている。

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