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2018年9月18日 (火)

藤原親光について4

 高倉天皇の第四皇子が生まれると、教盛と資憲の娘の子教子が夫藤原範季とともにその養育係となり、平家の都落後、その皇子は後鳥羽天皇として即位した。
 佐伯氏が親光に着目したのは藤原忠通と対馬国の関係からであった。忠通の家司源季兼が久安五年(一一四九)一二月末に対馬守に補任され、四年後の仁平三年閏一二月末には源国保と入れ替わる形で石見守に遷任している。季兼にとっては対馬守から石見守への遷任は昇進であるが、国保にとっては小国の国守への遷任であった。当時の国守は目代を派遣し、自らは都にいるという遙任が一般的であるが、国保は石見守、対馬守の時代に自ら直接下向して国務を行ったとの仮説から、同じく対馬国の下向していた親光に注目したのである。
 佐伯氏は一旦前対馬守になった親光が頼朝を通じて対馬守への還任を求めた事に焦点を当てているが、松島氏は親光が治承三年正月に対馬守に初めて補任された際の事情についても言及している。親光の除目申文には、自分は蔵人を一定期間務めており、国守に補任されてもよい時期であるとしているのみで、それも小国である対馬国を希望しており、特定の人物の後押しを受けてのものではなかった。摂関家の家司であったがために対馬守に補任されたものではない。佐伯氏は対馬守初任が成功によるものであるとの九条兼実の後の回想を採用しているが、松島氏は親光自らが補任を求めた文書には成功に触れておらず、兼実の回想には検討の余地があるとしている。宇佐大宮司公通は安元二年に対馬守に補任され、その後、成功二万疋により対馬守への再任を約束されたが、実際には実現せず、治承四年九月になって平清盛の後押しで豊前守に補任された。
 親光は前述のように治承三年一一月から翌四年一月にかけては都にいたことが確認でき、当初は対馬国に長期にわたって下向する意図はなかった。それが治承四年五月の以仁王の乱を契機に、畿内と東国では内乱状態となった。松島氏は、後白河院が内乱影響が小さい対馬国に国守親光が下向し、税収や物資の確保をすることを期待したとしている。ただし、それ以前に親光と院との間に特別な関係はなかったとする。後白河院も待賢門院の子ではあるが、親光の父資憲が深い関係を持ったのは待賢門院の嫡子というべき崇德院であった。そういう背景で下向した親光が、都落ちした平家の命令に従う可能性は低かったと思われる。親光としては対馬で蓄財した三万疋を後白河院に進めようとしたが、内乱状態で上洛は困難であり、逆に平家から攻撃をされたため、緊密な関係を持っていた高麗国に逃れている。

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