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2018年9月18日 (火)

藤原親光について3

 この訪問の直後である一一月一四日に平清盛がクーデターを起こし、最初に基房を解任し、二〇才の近衛基通を関白とした。その後、後白河院を幽閉し、院近臣を解官して、知行国を没収した。
 基通は父基実が死亡した際に七才であったため、摂関家領は基実の妻平盛子が相続し、叔父基房が関白となっていた。それが一転して関白に補任されたが、参議などの要職を経験しておらず、父から有職故実を学ぶことがなかったため、経験不足で失態がみられ、その権威の低下がみられた。そのため、もう一人の叔父である九条兼実が補佐役を期待されたのである。兼実は早くから有職故実について高い見識を持ち、仁安元年(一一六六)には一八才で右大臣に進んだが、健康面の不安もあってその後一三年間、その官職のままで、政治の表舞台で活躍することはなかった。それが関白の補佐役とされ、その嫡子で一三才の良通も右大将・権中納言に補任された。
 こうした摂関家内部の盛衰の中、親光は九条兼実との関係を強めたと思われる。親光の兄二人が仕えていた兼実の異母姉皇嘉門院の所領の大部分が良通に譲られていたことも影響したと思われる。親光は兄二人と異なり野心家であった。
 親光は仁安四年(一一六九)正月の除目で、その前年に即位した高倉天皇の蔵人となっているが、これは姉が平教盛の妻となっていることを利用したものであろう。教盛は平時忠とともに、応保元年(一一六一)に高倉が誕生すると、二条天皇の後継に擁立しようとして、天皇から解官されているように、高倉との関係が深かった。教盛は清盛の一〇才違いの異母弟であるが、池禅尼を母とする五才下の弟頼盛(清盛とは一五才違い)とともに清盛とは一定の距離を置いていた。教盛の母は待賢門院女房であった。父忠盛は待賢門院庁の別当であり、正室池禅尼は崇德院の嫡子重仁親王の乳母となっており、保元の乱で教盛や頼盛が崇德院方となる可能性は高かったが、忠盛の死後、後家として実権を有していた禅尼が、後白河天皇方となるように指示したとされる。

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