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2018年9月18日 (火)

石見守源国保2

 ここで、佐伯氏が親光を考察するきっかけとなった石見守源国保の対馬守遷任について確認すると、親光と同様、国保に対する情報収集が不十分な中で結論が述べられており、事実の解明にはほど遠いものだといわざるをえない。
 国保の前任者である源清忠は忠通の知行国大和でその政策が興福寺の反発を受け、一年で石見守に遷任となったが、石見守も一年で交代している。佐伯氏は、国保もまた知行国主藤原忠通のもとでの石見守と考えたが、すでに述べたように、忠通と対立する父忠実が石見国知行国主の座を忠通から奪い取り、自らの側近源雅国の子国保を国守に補任したものである。これが、益田庄や大家庄と異なり、長野庄が皇嘉門院領とならなかった原因の一つである。
 五味文彦氏『院政期社会の研究』を参照すれば、忠通知行国の国守と忠実知行国の国守が重なることがなく、全く異なる人物であることがわかり、且、忠実のもとで安芸守を務めた源雅国の存在と、その雅国が保元の乱の直後に籠居の身となっていたことがわかる。雅国もその一方ではその才能ゆえに、院の家臣とともに活動していたが、乱により一時的には籠居した。その後は、資憲のように出家することなく、院や摂関家の行事に参加しているが、彼がその実績によりその地位を上昇させる可能性は失われた。保元二年正月には「皇嘉門院殿上人修理権大夫雅国朝臣」とみえる。対馬国国保についても、任期四年を務めた可能性はあるが、国保と入れ替わって石見守となった源季兼の場合も、三年を少し過ぎた時点で交替しており、国保も同時期に退任した可能性がある。はっきりしているのは、その後確認できるのは嘉応元年(一一六九)四月一六日に従五位上となったところまでであり、これから活躍する年齢でありながら、国司を含めた他の官職に補任された記録は残っていない。
 少なくとも、国保の母方の祖父源師俊の生年を勘案すると、国保は大治年間(一二二六~一二三一)以降の誕生で、石見守となった久安二年の時点では一〇代半ば未満であろう。国保と同様、師俊の娘を母とする藤原頼長の子兼長は保延四年(一一三八)の生まれで、久安二年には九才でしかない。
 実際の国務は天養二年から久安五年(一一四五~一一四九)にかけて安芸守であった雅国とその関係者が担っていたと思われる。石見守から対馬守への遷任は、忠通側の巻き返しによるもので、争奪戦に敗れた忠実・頼長側はなんとか対馬国を確保したというものであろう。このころの頼長は周囲とのトラブルで孤立しつつあった。
 中央での忠通家司としての活動が確認できる源季兼に対して、国保の関係史料が確認できないことから、佐伯氏は国保が忠通の家司ではない可能性に言及しつつも、結果としては、石見国や対馬国に下向して国務にあたっていたためだとしている。これが全く根拠のない推論であることは明らかであろう。一定期間対馬国に滞在した親光の場合は、内乱によって畿内と近国が混乱状況となる中、影響がそれほど及んでいない対馬国で、税や物資の確保を狙った後白河院の意向をうけてのものであった。すべては、藤原親光・源国保に関する情報収集が行われなかったり、史料の解釈が不十分であったために起こったものであった。対馬が対高麗との関係で独自の位置を占め、ある意味では魅力的ではあるが、小国でもあり、この対馬守を希望するのは国守未経験の人が大半であった。豊後国の宇佐大宮司公通の場合は本拠地が近いこともあって、対馬国の利点を生かしやすかったのだろう。ただし、高麗との関係とともに海賊衆と共存しながら国務を進めることも必要であり、けっして楽な国ではなかったと思われる。

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