koewokiku(HPへ)

« PCの修復2 | トップページ | 藤原親光について3 »

2018年9月18日 (火)

藤原親光について2

   藤原親光について、佐伯徳哉氏「平安末期藤原摂関家の石見国支配と対馬地域」(『石見中世領主の盛衰とアジア海域世界』所収、二〇一八年)が言及しているが、松島周一氏「藤原親光の立場」(『愛知教育大学研究報告』第五一号、二〇〇二年)の分析との間にかなりの差がみられるので、再び確認したい。なお、佐伯氏は松島氏の論考については言及していない。
 親光が頼朝の「御外戚」と記された点ついては両者とも不明だとする。例えば佐伯氏は以下のように述べる。「頼朝が親光の行動に感じ入ったのも平家と姻戚関係にあったにもかかわらず平家に与同しなかった親光への評価であったと思われる」と。しかし、『吾妻鏡」がこのような観点で親光を「御外戚」と記すことは100%あり得ないことで、それを踏まえた分析が必要である。
 親光は崇德院の側近資憲の子(兵範記には二男で基光の舎弟とする)であり、その兄弟基光と俊光(母は新院=崇德院女房阿波、あるいは三男ヵ)は「皇太后宮大進」と系図に記されるように、崇德天皇の皇后から、近衛天皇の即位に伴い皇太后となった皇嘉門院に仕えていた。保元の乱で父資憲が出家せざるを得なかったことはその子にも影響し、長子基光は日野氏惣領資長の養子となっている。資長は藤原忠通の家司源季兼の娘との間に嫡子兼光をもうけている。後醍醐天皇の側近に登用された俊基は資憲系であるのに対して、資朝は資長の子孫である。
 皇嘉門院は藤原忠通の娘であった。親光と摂関家をつないだのも崇德・皇嘉門院であった。佐伯氏は親光と九条兼実の関係のみ指摘しているが、松島氏が指摘するように、兼実の異母兄松殿基房や近衛基実の子基通の家司としてみえた後に、兼実の家司となっている。
 一方で、親光には日野氏惣領兼光との関係もみられる。治承三年(一一七九)一一月五日に九条兼実の子良経が侍従拝賀として各所に挨拶に参っているが、関白松殿基房邸を訪れた際には基房の識事である親光を通じて事由を伝えている。本来は日野兼光に連絡していたが兼光が腫物の所労で迎えができなくなったため、代理として従兄弟である親光が出迎えたものである。続いて一二月八日に関白近衛基通が参内した際の前駆一四人の中に五位として親光がみえている。四位の中に季長もみえているが、源季兼の子である。

« PCの修復2 | トップページ | 藤原親光について3 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 藤原親光について2:

« PCの修復2 | トップページ | 藤原親光について3 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ