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2018年9月29日 (土)

大治五年の出雲守光隆2

 家行は白河院政のもとで伯耆守(七年)・尾張守(八年)・丹後守を歴任した高階為遠の子である。為遠は備中守為家の子であるが、その妻の一人に源基綱の娘がいた。基綱は宇多源氏の大納言源経信の子で、堀河天皇の蔵人頭をへて権中納言に進み、永久五年(一一一八)一二月に大宰権帥としての赴任地で六八才で死亡している。為遠と基綱の娘の間には歌人としても知られる待賢門院尾張がいる。また源行宗の妻となった娘もいるが、行宗の養女が崇德院との間に重仁親王を産んだ兵衛佐局であり、基綱一族と待賢門院・崇德院との緊密な関係がうかがわれる。兵衛佐局は藤原季実の孫(法印信縁の子)であり、その兄弟が行宗の養子となって藤原光隆から源光隆になった可能性もある。季実の兄弟季仲(出雲守)の娘も源行宗の室となっていた。さらに為隆の妻となった娘もいるが、為隆はその父為房が待賢門院の母光子の兄で、待賢門院の従兄弟になる。
 光隆の名を系図の上では確認できないが、基綱の孫であり、且つ父が早世したため為遠の子家行が後見人を務めていたと思われる。当然、当時の出雲国は待賢門院の分国であった。大治三年末にそれまでの国主藤原為隆・国守憲方から国守藤原基隆・国守経隆に交替して二年足らずであるのに、交替したのはそのためである。大治五年の待賢門院は、律宗寺院法金剛院を再興して、六勝寺の一つ円勝寺(大治三年供養)とともに自らの御願寺とし、そのもとには全国から所領の寄進が相次いでいた。
 死期の近づいた白河院は孫の鳥羽院とは独立した経済基盤を待賢門院に伝えるための作業を開始していたが、その最中の大治四年に死亡した。待賢門院の院分国を設定したのもそのためである。
[補足] 「諸院宮御移徙部類記」(宮内庁書陵部所蔵)によると、康治二年七月に待賢門院の子統子内親王の三条烏丸邸の造進にあたった安芸守光隆について、出雲国司から安芸守に遷任したことが記されている。出雲国では後任の藤原清隆・光隆父子によって杵築大社造営事業が行われており、三条烏丸邸の造進と両立が困難であったため、安芸守となったことがわかる。また、当初光隆は出雲守の前任であった経隆の父で院近臣である藤原基隆の後家の猶子となったが、その後、高階家行の娘に嫁したため、猶子関係を解消して、養父で大舎人頭であった家行が造営の後見を行った。これにより、源光隆が出雲守であったことは証明された。光隆の生年は一一二二年ないし二四年で、基隆が死亡した時点では九才ないしは一一才である。元服して出雲守になった時点では基隆は健在である。

 

 

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