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2018年9月29日 (土)

大治五年の出雲守光隆1

 『中右記』大治五年(一一三〇)一〇月二七日条によると、出雲守であった藤原経隆が讃岐守に選任し、新たに藤原光隆が出雲守に補任されている。光隆は同時に従五位下に叙されている。まだ九才であったが同日夜に元服し、院臨時御給として叙位された。院とは鳥羽院である。保安三年(一一二二)の生まれとなる。
 問題はこの光隆と藤原清隆の子光隆の関係である。後者は公卿補任によると、この三年後の長承二年(一一三三)一一月一九日に蔵人に補任され、一二月二六日に五位に叙爵し、翌三年閏一二月三〇日に八才で淡路守に補任されている。大治二年の生まれとなる。五才違いで同姓同名の藤原光隆がいた可能性は低く、『中右記』の記載には誤りがあると思われる。後者は大治五年の時点では四才であり、年齢を誤った可能性は低い。となると、姓が問題となるが、この時期に国守を務めている光隆にはもう一人「源光隆」がいる。
 康治二年七月に待賢門院娘統子内親王御所を修造した「安芸守源光隆」がみえる。光隆は在任中の久安元年七月二五日に二二才で死亡したとある(『本朝世紀』)。これだと保安五年の生まれとなる。藤原光隆は七才で叙爵しており、源光隆の生年は保安五年が正しいと思われる。これだと藤原光隆と同様に七才で元服し叙爵されたことになる。保延元年一一月二〇日の五節で舞姫を献じて播磨守とともに薫物一裏を送った出雲守光隆は源光隆である(『中右記』)
 安芸守源光隆について五味文彦氏は当時の安芸国が待賢門院の分国であった可能性を指摘しているが、正しいとすべきである。光隆の父は不明で、御所造営の際は待賢門院判官代大舎人頭高階家行が後見人であった(『諸院宮御移徒部類記』)が、待賢門院も久安元年八月二二日に死亡している。源光隆の後任の安芸守は藤原忠実の家司源雅国で、安芸国は忠実の知行国となったのである。
[補足]長承元年一一月二三日に五節雑事を献上した中に、越後清隆(綿三百両)と出雲光隆(筵三〇枚)がみえる([中右記])。これにより、出雲守が清隆の子光隆でないことが明確となる。

 

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