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2018年9月 2日 (日)

石見国益田庄御旧封古事記1

 須佐郷土史研究会東京部会の『研究資料第十号』に「石見国益田庄 御旧封古事記」(萩博物館所蔵小国家・松本家古文書)が翻刻・紹介されている。その個々の内容は検討しつつ利用しなければならないが、ここではその記述の内、阿忍と益田兼方に関するものを紹介する。
 阿忍は三隅兼信の娘で、益田兼長との間に生まれた娘が益田兼弘(法名道忍)の母とされる。この阿忍について夫兼長が死亡した際には二五才であったことと八十余才まで生きたことが記されており、その生年を知る手がかりとなる。
 阿忍譲状によると夫兼長の遺領の配分がなされたのは文永一〇年であった。兼長の死をとりあえず文永九年(一二七二)年とすると、阿忍は宝治二年(一二四八)の生まれとなる。阿忍は正和五年(一三一六)二月に置文を作成しており、この後間もなく死亡したと思われる。ただし、宝治二年の生まれだと六八才にしかならない。また、父兼信は寛元四年(一二四六)が死亡したことで、子乙法師丸が永安別符以下の所領を安堵されているので、やはり宝治二年説は成立しない。仮に正和五年に八〇才であったとすると嘉禎三年(一二三七)の生まれとなり、二五才であるのは文応二年(一二六一)となる。兼長の死亡から配分まで一〇年以上が経過したことになる。
 兼長には同母弟と思われる松房(兼久)がおり、延応元年(一二三九)九月には一旦、周布兼定領の内、周布郷と安富名を譲られるとの和与が成立しており、兼久並びにその兄兼長の誕生もそれ以前でなければならない。してみると、兼長の妻阿忍が嘉禎三年の生まれであるとの想定が的外れではないことになる。兼長死亡時に阿忍が二五才であったのが誤っているとの考えも可能だが、敢えて記しており、やはり、兼長の死後、後継問題を含めて所領の配分には時間がかかったのではないか。
 惣領の後継者は兼長の兼久しかないのではとの意見もあろうが、そうだとしても配分は簡単ではない。また、龍雲寺蔵御神本三隅氏系図のみにしかみえないが、兼長には小笠原氏から迎えた養子(後の兼頼)がいた。「系譜」(萩博物館所蔵周布家文書)には、兼長の父兼時の妻は小笠原長経の娘だと記されている。兼長の母もこの女性であり、それゆえに母方の祖父に因んで兼長(最初は兼経とも)と名乗ったのだろう。
 兼久が惣領を継承した際には、一旦は兼頼をその養子にしているが、最終的に兼頼は丸毛兼忠の養子となり、丸毛別符を相続している。その背景には益田氏惣領家の所領の大部分が没収されたためであった。そのため、丸毛兼忠の曾孫兼幸は丸毛別符については一分地頭職を父から譲られたのみであったが、兼久の妻の所領であった安富郷を、自らの祖母から譲られている。

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